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2021/10/15 アットホームな職場です。

何となく後回しにしていた本の出品作業をしている。ていうか、それしかしていない。本を出品して、眠くなったら床で爆睡し、音楽を聴いて、YOUTUBEを見て、たまに本とか論文を読む。

意味もなくモンスターを飲んで徹夜をする(←本当に何の意味もない)。腹減ってないのに、変な時間に菓子パンを食む。ほんの気まぐれで生活が狂っていく。別に生活がおかしくなる明確な要因などはないのに、意味不明なウェーブに乗って、気付いたら狂っている。意味なんてない。

仕事にはもう完全に行っていない。メッセンジャーの通知に苛立ちすぎて(仕事を思い出させるから)頭がおかしくなりそうだったので、ミュートにした。さっさと辞めれば良いのに。しかし、休むなり辞めるなり連絡することすら億劫だ。それはそれとして仕事に行かなければ来月は確実に臓器が爆発してしまう。さすがにこのままはやばいのでとりあえずタウンワークをもらってきた。読めば読むほど気分が沈む魔法の書物である。『虚無への供物』や『ドグラ・マグラ』も顔負けである。

僕のことをよく知っている先輩に「おまえの場合、一つのことをずっとやっていくのは少し違うとおもう」と言われた。お世話になっている古本屋の店主にこないだ同じようなことを言われたばかりだ。同時に多方に根を張って生きていくのが良いはずだ、と。

それを聞いてから割と本気で独立して何か場所をつくってみることを考えている。同時に色々な意味を併せ持つ場所。

職場の人間関係が固定化したり(あるひとと長く付き合ったり)、年上に囲まれてやっていったりするのはどうやら苦手だということが分かった。僕はできれば少人数で且つ流動的にやっていくべきらしい。ならばどこかに所属するというより、自分で場所を作って、そこを交差点として人やモノが交わるのを観測するような、色んな意味を含みながら変わり続けてゆくための仕事をしたほうが良いのではないか。というか、それは前から考えていたけれど、もう少し本気で考えて実行するタイミングなのではないか。

色々考えてはいるが、思いつくことがことごとく中学生レベルのあっけらかんとしたもので笑えてくる。リスクが想定できない。まぁ、そういう楽天的な感じでとりあえずは良いか。このまま、もすこし具体的にしてゆければ良い。人の話をもっと聞きに行こうか、と思う。来週あたり本気で話を聞きに行こう。僕はまだ、どのようにしてお金が発生するのか、そこをよく分かっていない。

ジル・クレマンの「動いている庭」についての論文をつまみ食いしている。「動いている」という形容はありきたりだが、やっぱり拘らなければならない部分である。

プレイリストを作った。作品創作をしながら、これらの作品には世界が凝縮されているのを強く感じていた。反芻する。反芻することを修行とする。

遊ぶことだ、と前回の記事で書いたが、もうひとつ、逃げることも生きることの核心だと思う。僕にとって生きることは、十全に惑い、遊ぶことだし、自分自身や世界から強迫されるものから逃げ続けることだ。動くこと、遊ぶこと、逃げること。そのようにして無意味と偶然の湖に身投げしたい。

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