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青梅散策

  ゴールデンウイーク真っ只中!しかも快晴で汗ばむほどの陽気なので、友人と待ち合わせて青梅まで足を延ばそうということになった。何故青梅かというと、昔の映画の手描き絵看板が町中に飾られていて、昭和の雰囲気が残った街だという情報を得ていたので、昭和レトロ好きとしてはここを一度訪れたいと前から思っていたのだ。
 
  中央線で立川から分岐する青梅線。此処から先はこの年齢にして初めて訪れる未知の領域。個人的には立川から乗客が減って、地方ローカル線のようにのんびりとした車内を想像していたのだが、何故か人が減らない。その謎は青梅駅に到着して明らかになった。
 
  青梅駅のホームには、降車した乗客が出口方向に朝ラッシュ並みに連なっていて、なかなか前に進まない。既に町の方からは祭囃子が何方向からも聞こえてきていて、今日が青梅大祭の本祭りの日だと知ることになる。コロナ禍で4年ぶりの開催とのことで、祭りを待ち侘びていた地元と周辺地域の人々の熱気が既に駅周辺に充満していた。
 
  「参ったな・・・」祭り目当てではなく、あくまでものんびりと昭和の街をぶらぶらしようと思っていた我々は、いきなり出端を挫かれてしまった。「どうしようか?」と思いつつ駅横の周辺地図を見て予定変更を相談。すると駅の裏側の小高い丘の上に「青梅鉄道公園」を発見して、即決。友人はかなりの鉄オタだし、私もそれほど詳しくはないが乗り物は全般的に好きである。徒歩15分とあったので、人込みを避けつつ丘を登っていくことに。
 
  最短距離で鉄道公園に繋がる階段を発見したが、ここを選択したことをすぐに後悔した。この階段は丘の地面である土に丸太を埋め込んで作ったような代物で、足場は不安定でが歩幅が大きく不規則、しかも踊り場も無いので、途中何度も立ち止まって休み休み登らざるを得なかった。
 
  丘の上に辿り着くと、すぐ目の前に青梅鉄道公園の入り口があり、一息つく間もなく入場。建物内の展示物は、写真やパネルが中心で、目玉は大型の鉄道模型のジオラマ。これはこれで面白かったが、この鉄道公園の最大の売りは外に展示されている実物の鉄道車両の数々。明治期に輸入されたイギリス製の蒸気機関車や、大正~昭和初期に日本国内で設計・製造された蒸気機関車の数々に圧倒され、旧国鉄時代の青梅線車両の内部を覗いたり、東海道新幹線の0系車両の中に入って座席に腰を下ろしたりして、暫し昭和の思い出に浸る。

1964年(昭和39年)から営業開始した東海道新幹線の初代車両0系


   0系新幹線の座席に座って感じたことだが、現行の新幹線と比べて、座席の背もたれが低く幅も狭かった。開業以来半世紀以上を経過して、日本人の体格が向上したのも事実だろうが、車両をどうやって全体的に大きくしたのか、友人と二人して色々想像を巡らす。この辺りは鉄オタならではだなと思った(笑)
 
  鉄道公園でレトロな鉄道に十分癒された後、丘を下り再び青梅市街へ。いきなり曳屋台を先頭にした山車の行列に何台も遭遇した。旧青梅街道の両側には数々の露店が出ていて、イカ焼きやチョコバナナを求める人々の長い行列が至る所に出来ており、青梅駅に到着した時の朝ラッシュのような雑踏が町中に溢れている。そんな人の波を搔き分けるようにして何とか進み、お目当ての「昭和レトロ商品博物館」へ。

昭和レトロ商品博物館で

   昭和レトロという言葉でイメージされるようなものがほぼ全て展示された博物館は、かなりの築年と思われる2階建ての木造家屋で、元家具屋さんだったそうだ。2階には青梅に縁のある小泉八雲の「雪女」の資料が展示されていた。いかにもレトロな趣の建物はそのせいか昔の名画の手描き絵による看板のオブジェとも凄くマッチしていた。此処で友人と私の目的はほぼ完遂したのだが、本当は街道と街道を繋ぐ裏道に昔の名残を見出すような路上観察をもっとやりたかったのだ。それはまた別の機会に…

手描き絵により再現された昔の名画看板

  ところでこの青梅大祭のそもそもの中心はと言えば、それは住吉神社だという。住吉と聞いて真っ先に思い出すのは大阪の住吉大社。もしかすると青梅には上方からの移住者がいたのだろうかと、数百年の遥か昔に想いを馳せてしまった。何故かというと、東京下町の佃島にも住吉大社の分社である住吉神社があり、そこは上方から江戸に招かれた漁師たちが、干潟を埋め立てて築島し定住したという歴史的経緯があって建立されたという話を以前聞いたことがあったからだ。そんなことを考えていたら、お神酒所でお祭りの役員のような人たちが、手締めをしているのを耳にした。その手締めが東京の下町のそれとも、大阪や九州のそれとも全然違うもので、初めて聞くその拍子に興味を惹かれた。   

  東京で手締めと言えば、浅草の三社祭や、神田祭などで有名なあの締め方で、音を文字で表すなら「シャシャシャン シャシャシャン シャシャシャン シャン」(3-3-3-1)となる。この1セットを一本締めと呼び、これを三回繰り返すのを三本締めと言うのだそうだ。何故この回数かというと、「3-3-3」で9回打って、最後に1回打って丸く収まるということに由来する。9は漢字で書くと「九」これに最後の1回を足して「丸」にするという意味があるそうなのだ。六代目の故・三遊亭円楽師匠が、新真打の襲名披露口上で手締めの音頭を取るように指名された時、音頭を取る前によくこの話をされていて「よぉ~シャン」という1回しか打たない手締めは1本締めとは言わない、邪道だと仰っていたのを覚えている。 

  大阪や福岡の手締めは全く異なるもので「シャンシャン シャンシャンシャシャンシャン」という2-2-3の形式になる。但し大阪と福岡では拍子の速さが全く異なり、東京と同じような速さで打つ博多祇園山笠の福岡(博多手1本)に比べて、天神祭りなどで行われる「大阪打ち」はかなりゆっくりとしている。手拍子の前と間に合いの手が入り、こんな具合になる。
「打ちま~しょ」シャンシャン 「もひとつせっ」シャンシャン 「祝うて三度」シャシャンシャン
最初の掛け声も男性のする男締めでは「打ちま~しょ」であるが、女性のする女締めでは「打~ちましょ」とアクセントが変わるのが特徴である。これらは「2‐2‐3」という7拍打ちで、「9+1」の丸く収まるということでもないし、8にして末広がりの縁起良さにも当てはまらない。何故7なのか誰か詳しい人に教えて貰いたい。いずれにせよ青梅で耳にした「シャシャシャンシャシャシャン シャン」という「3‐3‐1」の7拍打ちは、東京下町とは全く異なるルーツを持っていそうな気がするし、7という拍数の共通性から西日本から伝えられた何らかの影響ではないのかなという仮説に辿り着いたというお話。

  人の多さに街を隈なく見て回れなかったが、その代わりにふと耳にした手締めの音から色々と想像を掻き立てられたゴールデンウイーク中の1日であった。 

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