見出し画像

2024年6月9日礼拝説教「狭間のヨナタン~命がけの交わり~神を愛する人生③」(Ⅰサムエル20:35~42)

聖書箇所  Ⅰサムエル20:32~42
20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」
20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。
20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである。
20:35 朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野に出て行った。
20:36 そして子どもに言った。「走って行って、私が射る矢を見つけておいで。」子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。
20:37 子どもがヨナタンの放った矢のところまで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んだ。「矢は、おまえより、もっと向こうではないか。」
20:38 ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。「早く。急げ。立ち止まってはいけない。」その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。
20:39 子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味が分かっていた。
20:40 ヨナタンは自分の弓矢を子どもに渡し、「さあ、これを町に持って行っておくれ」と言った。
20:41 子どもが行くと、ダビデは南側から出て来て地にひれ伏し、三度礼をした。二人は口づけし、抱き合って泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた。
20:42 ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った。

(参考聖句)ローマ8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

(参考聖句)箴言17:17
友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。

(参考聖句)Ⅰサムエル23:15~18
23:15 ダビデは、サウルが自分のいのちを狙って、戦いに出て来たのを見た。そのとき、ダビデはジフの荒野のホレシュにいた。
23:16 サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。
23:17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」
23:18 二人は【主】の前で契約を結んだ。ダビデはホレシュにとどまり、ヨナタンは自分の家に帰った。

(参考聖句)ヨブ 6:14
落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう。

(参考聖句)Ⅰヨハネ4:19~21
4:19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

狭間のヨナタン~命がけの交わり~
Ⅰサムエル20:35-42
 「神を愛する人生」3回目です。なぜこのシリーズかというと、今年度のテーマに沿っているわけです。私たちが集っていますこの教会に、新しい人たちが加わっていく、そのような予感と期待があります。そうして新しい人と古い人が入り交じっても、混乱しないで歩んでいく。そのための3年越しの「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」ということばであり、とくにこの一年は「神を愛する」ことを強調してまいります。
「神を愛する人生」。そういいましても、神を愛するとは何なのか。自分は、いま神を愛している状態なのかそうでないのか、疑問がわく方もあるでしょう。いいえ、むしろ
自分を疑ってかからないほうが心配なのかもしれません。また神を愛する「人生」とは何かと改めて考える方もあるでしょう。
 しかし聖書はこう言っています。週報にも毎週書かれていますが、本年度の標語聖句です。ローマ8:28〈神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています〉。
 端的に言えば〈神を愛する人たち〉とは〈神のご計画にしたがって召された人たち〉です。そして〈神のご計画にしたがって召された人たち〉とは、文脈からすれば明らかにイエス・キリストを信じる人(クリスチャン)のことです。そして「人生」が一日一日の積み重ねであれば、クリスチャンの人生は自動的に神を愛する人生のはずです。
 とはいえ私たちが、ほんとうにクリスチャンとして神を愛する人生を送っているかどうか、吟味も必要でしょう。信仰生活の折句acrosticを以前つくりました。クラスを取った方は覚えておられると思います。「狭いけど誉れ(せse・まma・いi・けke・どdo・ほho・まma・れre)」です。
 先週はテモテの話をしつつ、最初の文字「せ」にあたる聖書seisyoを読む(聖書に親しむ)話をしました。今週は旧約聖書のⅠサムエルに描かれるヨナタン(ダビデの親友)を取りあげながら「ま」で始まる「交わりmajiwari」について深めます。
 一言お祈りいたします。「愛するイエス・キリストの父なる神。あなたは、三位一体の交わりのなかで天地万物をお造りになりました。そしてあなたとの交わりから断たれてしまった私たちに、救い主を送ってくださいました。あなたとの交わりから断たれてしまった私たちは、この上もなく惨めであり、正しく自分を愛することにも、自分の隣人を愛することにも失敗しております。イエス・キリストは、仲介をする贖い主として十字架にかかり、私たちに、神であるあなたとの交わりを回復させてくださいました。さらに、この救いは、どうしようもない私を再生させ、隣人や友人や家族や仲間ともう一度出会わせてくださいます。また、教会は、キリストに倣って互いに愛しあう群れです。世界と並ぶように教会があることにも感謝します。ウクライナでの戦争、ガザ地区での戦争、何があなたの願っておられる方法なのかわかりませんが、一刻も早く戦火が止み、平和と回復と癒しの働きが再開するようにお願いいたします。私たちにまことの交わりをさらに見せてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
 
(サウルの王子ヨナタンの風景)
 時代は紀元前11世紀。出エジプトからすでに400年。カナンの地に定着したイスラエルは、周辺の異民族に脅かされつつも、都度都度に士師が指導者として立ち、十二部族の連合体として民族の結束をこの時期まで保っていました。しかしついには周辺の民族のように王を立てたいと思うに至り、時の指導者、預言者サムエルは、神の示しに従って油を注ぎ、王となる人が指名されていきました。
 二人の人物がサムエルに油注がれます。最初の王としてサウル。サウルは美男で高身長でした。しかし性格は小心狷介で、ペリシテとの戦いでダビデが名を上げると嫉妬に狂うようになります。そして本日の中心人物ヨナタンは、サウルの長男で王子です。家来たちに無理難題を強いるのは父のサウル王で、ヨナタンはサウルの将軍として活躍しつつ父を諫める立場でした。民衆の人気もヨナタンのほうがサウルより実は上でした。
 そんななかサウルが決定的な罪を犯し、サウルの王国は〈サウルよりすぐれた隣人〉(Ⅰサムエル15:28)に与えられることになります。その〈隣人〉こそが羊飼いエッサイの末っ子のダビデでした。ダビデは、知恵と勇気でペリシテの代表戦士ゴリアテを倒すと、一躍イスラエルで名高い戦人となりますが、ダビデこそサムエルによって油注がれた「新たな王」「次の王」でした(Ⅰサムエル16:13)。
 ダビデは、サウルの家来になり、ダビデが出ると、ペリシテとの戦いは連戦連勝。ついにはサウルの娘とも結婚し、義理の息子にもなります。にもかかわらず、今や神に退けられた王となったサウルは、ダビデを何度も殺そうと図ります。ダビデが活躍すると、サウルはダビデを殺そうとするのです。
 ダビデの妻となったサウルの娘ミカルも、ダビデに油注いだ預言者サムエルも、ダビデのいのちを、サウルの怒りから守ろうとします。しかしサウルから、もっともダビデの命を守ろうとしたのは、サウルの長男ヨナタンです。
 次の日曜日は、父の日です。しかし私の説教ではなく、田中堅悟実習生が説教です(おたのしみに!)。ただ父の日が近くて気づいたことは、本日、語っておりますヨナタンの父サウル王は、聖書中最大の反面教師の父親ではないかということです。小心で狷介で嫉妬深く暴力的です。
 サウルにかかると真の神信仰も自分のご都合次第のように思えます。〈見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者〉(Ⅱテモテ3:5)〈見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者〉(同、新改訳第3版)のお手本のような人物です。こんな人にはなりたくないなぁ(こんな人の子どもにもなりたくないなぁ)と心から思います。
 
(ヨナタンはダビデを愛した)
そんな父親を持った王子ヨナタンでしたが、ダビデをひとりの人間として(友人として)愛するわけです。まるで一目惚れみたいなのですが、ダビデはゴリアテを倒して、その首をサウル王の前に持参しました。ダビデがサウル王と語り終えると〈ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛した〉(Ⅰサムエル18:1)。ダビデと契約を結び、自分の着ていた上着や、自分の鎧甲、剣、弓、帯まで与えたと書いてあります(同18:3-4)。血が繋がっていませんが、兄弟のような間柄brotherhoodの友達、親友にダビデとヨナタンはなるわけです。
 今回、交わりを主題に皆さんへのお話を準備したわけですが、早い段階で次のような聖句が私の頭に浮かびました。箴言17:17〈友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる〉。その人が順調・快調・絶好調のときだけ成立する交わりではなく、彼や彼女が辛いときこそ助けたり寄り添ったりできる友情や兄弟愛を、聖書は「尊い」と教えているのだと思います。
 そして私たちの使っている聖書で、この箴言17:17に脚注が付いています。旧約聖書の4箇所が示されています。同じ箴言の18:24、27:10、それからヨブ記6:14、そしてⅠサムエル20章全体です。ダビデとヨナタンの友情物語がもっとも濃いのが20章。そのまま読んでもいいのですが、要するにヨナタンにとってはお父さん、ダビデにとっては主君で義理の父である、サウルの殺意は本気なのかという話です。
 ダビデが〈私と死の間には、ほんの一歩の隔たりしかありません〉(Ⅰサムエル20:3)と言うほどに切羽詰まった状態です。それで新月の祭の食事の席に、ダビデは欠席をして現れない。サウルは怒るだろうか。殺害を口にするだろうか。怒りを宥めようとするヨナタンのことばを聞き入れるだろうか。これをもってサウルの本気を測るのです。
 20:32-34〈ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、彼は殺されなければならないのですか。何をしたというのですか。」20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて撃ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。20:34 ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために悲しんだからである〉。
 かくしてヨナタンは、二人にだけわかる方法で、サウルの殺意は本物なので〈早く。急げ。立ち止まってはいけない〉(Ⅰサムエル20:38)と告げたのです。そしてダビデは地にひれ伏し、ヨナタンに三度礼をします。口づけし、抱き合って泣いた。ダビデがいっそう激しく泣いたようです(同20:41)。
 そして20:42〈ヨナタンはダビデに言った。「安心して行ってください。私たち二人は、『【主】が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です』と言って、【主】の御名によって誓ったのです。」そして、ダビデは立ち去った。ヨナタンは町へ帰って行った〉。
 ダビデはこのときから流浪の身となります。もう一度、ヨナタンはダビデと会って、力づけます。23:16-18a〈サウルの息子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに行って、神によってダビデを力づけた。23:17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。父サウルの手が、あなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。父サウルも、そうなることを確かに知っているのです。」23:18a 二人は【主】の前で契約を結んだ〉。
 これがダビデとヨナタンの実際に会った最後になります。まもなくヨナタンは、父サウルと共にペリシテとの戦いで死ぬことになり(Ⅰサムエル31:2)、イスラエルの王国はダビデの支配へと移っていくことになります。
 
(ヨナタンの友情から学ぶこと)
 父サウルと違い、ヨナタンのことばや行いは「透き通っていて濁りがない」と感じるのは私だけでしょうか。ヨナタンから学ぶところはないでしょうか。
 まずヨナタンは、ダビデと繋がることで、父サウルの怒りを自分も買いました。サウルから槍を投げつけられてダビデが殺されそうになったように(18:11)、ヨナタンもサウルから槍を投げつけられて殺されそうになっています(20:33)。そのことをヨナタンはダビデに愚痴ってはいません。愚痴って当たり前なのに、そこは不思議なところです。
 第二に、ヨナタンはダビデに恩着せがましくしていません。ヨナタンの機転や行動がなければ、ダビデには王位を得るどころか、いのちも無くしていたに違いありません。助けてやったから、暁には自分を大臣か将軍に、あるいは広い領地をください、という野心の欠片もありません。これもまた不思議なところです。
 第三に、ヨナタンは、ダビデを生かそうとしただけではなく、あんな父親のサウルを見捨ててはいません。サウルの側で仕えながら、何とかダビデもサウルも生かされる道を探っていたと思うのです。対立する二つのものの間に入ることは、下手をすると両側から憎まれ怒りを買います。争いの仲介は、国同士でも身近でも簡単ではありません。
 ヨナタンは父サウルと共に死んで、その実現は叶いませんでしたが、ヨナタンがダビデを死なせず生かすことができたのは、ヨナタンがサウルとダビデの間に入って仲介を試みたからです。毒親の個性に耐えながら、彼の再生をも願ったからです。今日の説教題のようにヨナタンは狭間のヨナタンだったのです。
 第四に、ヨナタンは全能の神を信じていました。ヨナタンの信仰は、たとえば20:12以下によく現れています。しかしある人(リュティ)によれば、ヨナタンの信仰のすばらしいのは人と人の間に神を置いていることだそうです。親友ダビデとの間柄を相性のよさや利害の一致ではなく神を証人としているのです(20:23&42)。
 私たちも、友情だけでなく夫婦や親子、様々な関係性を有していますが、教会も含めて、人と人との交わりには神の恵みがあることを認めたいものです。
 第五に、ヨナタンは時宜に適った助けができました。ヨナタンは、20章で涙の別れをしたあとで、23章でダビデを訪問して〈神によって〉力づけます。ダビデはサウルに命を狙われ、風前の灯火でした。ヨブ記のなかで友情に関してヨブはこう言っています。
 〈落胆している者には、友からの友情を。さもないと、全能者への恐れを捨てるだろう〉(ヨブ6:14)。あまり目立たない記事ですが、23章のヨナタンの訪問はダビデの生涯にとってポイントが高いと私は思います。20章のように助けを請うたわけではないのです。私たち夫婦もTCUのキャンパスに住んでいたころ、連合のある先輩牧師が何かと覚えて訪ねてくれて、力づけられた経験があります。
 信仰は、ひとりひとりがキリストと聖霊によって神と出会うことですが、そのひとりひとりの信仰は様々な場面で他の人の良い行いや証しによって力づけられます。私たちの存在や行動や言動や態度が、他の人の求道や信仰の歩みを励ますようなことも起こっているはずですから、感謝です。
 
(まとめ)
本日は、人と人の関係(交わり)のヒントをヨナタンの記事から得ようと試みました。「人と人との関係がどうして神を愛する人生と関係があるのか」と思った方もあるでしょうか。しかし聖書はこう言っているのです。新約聖書、Ⅰヨハネ4:20b-21〈目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています〉。
 一言祈りましょう。「主なる神。私たちを愛してくださり、キリストのゆえに、私たちもあなたを愛し、自分と隣人を愛せること、互いに愛し合う交わりの愛も感謝します。しかし、私たちは、この愛する関係においてもっとも罪を犯しやすい急所であることを認めます。あらゆる人と人との間に、あらゆる国と国の間に、全能の神であるあなたが、どうぞご介在ください。イエス・キリストのお名前でお祈りいたします。アーメン」。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?