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2024年6月16日14時婚約式説教「はからずも」ルツ2:3

《聖書 ルツ2:3》 ルツは出かけて行って、刈り入れをする人たちの後について畑で落ち穂を拾い集めた。それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑であった。

《聖書 箴言30:18~19》 30:18 私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。30:19 天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、海の真ん中にある船の道、おとめへの男の道。

《聖書 伝道者4:12》 一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号


はからずも
ルツ2:3

 ただいまKY兄とKN姉が互いに婚約者となったという約束をし、N牧師がこれを受けて祈りをささげてくださいました。感謝します。
 二人の結婚式は11月30日。ここにいる皆さんが参列を強く願われるかもしれません。しかし、いまやそれぞれの仕事や生活の拠点は三重県四日市市のほうです。11月30日の結婚式は四日市市で行われます。両人とも印西市に実家や教会があるのに残念ですが、義理と人情を大切にする二人の思いを汲み取って、少し賑やかな婚約式をこのように開いているわけです。
 聖書のお話を初めて聞く方も、短い時間ですので、緊張をせず、楽な気持ちで耳を傾けてください。

 私の恩師のひとりで青山学院大学の教授でもあったアメリカ人宣教師がおりました。その方は若い教え子たちの結婚披露宴でスピーチをよく頼まれる方でした。キッチンという名前の先生なのですが、その方がそんなときによく開く聖書の一節を、今日プログラムに印刷いたしました。
 箴言30:18-19〈私にとって不思議なことが三つある。いや、四つあって、私はそれを知らない。天にある鷲の道、岩の上にある蛇の道、海の真ん中にある船の道、おとめへの男の道〉。読んで字のごとくですが、どんなふうに男女の恋愛が成就するかはよく分からないという意味です。
 もちろん本人たちが相手を好きになって、もっと好かれるようにがんばるということもあるのですが、それだけではないわけです。今日の短いお話のタイトルは「はからずも」です。「はからずも」とは、思いもかけず、意外にも、ということ。その結果を予想も期待もしていなかった。たまたま、とか、偶然というニュアンスもあります。
 Y兄は、いまから四年前に転職して三重県で暮らすようになり、四日市にある長老教会に通うようになりました。N姉は、それから2年ほど遅れて同じ教会に通うようになります。長老教会が三重県の津や伊勢に新しい教会をつくる計画があって、そのお手伝いをするためです。
 そして二人は小さいとき、とくにここから歩いて10分ほどの家の教会で親に連れられて礼拝を守り、礼拝のあとは近くの空き地でいっしょに遊ぶということがありました。もちろん、YくんはNさんの兄のRくんとおもに遊んだのであり、NさんはYくんの妹のKさんと遊んだのでありますが、幼なじみと言ってもおかしくないのです。
 印西市で育って、それぞれの教会で信仰を告白し、それぞれの大学で学んで社会人となってから、〈はからずも〉四日市の教会で再会し、青年会の活動などをとおして相手を意識し、相手を自分にとっての特別な人ではないだろうかと祈るようにもなりました。
 このようなことは、空を飛ぶ鷲の道のように、岩を這う蛇の道のように、あるいは大海を渡る船の航路のように、当人たちも周りの者もすべてが見えて分かって進むわけではないのです。ひとの人生にとって〈はからずも〉は、想像以上に多いのではないでしょうか。すべては、天地を造られた神のご計画(神の御手)のなかにあります。

 そして考えてみますと、このような〈はからずも〉は、恋愛や結婚だけに限らないのであります。いくつか指摘したいと思うのです。まず、第一に言えることは、私たちがこの世に生を受けているということです。私たちが生まれるとき、何年何月何日に、この国の、この地域の、この家庭に生まれてこようと決めて生まれた方は、ひとりもいないのです。神は、ひとりひとりの人間の内臓を造り、母の胎(お母さんのお腹のなか)で私たちを組み立ててくださった方だと聖書は言っています(詩篇139:13)。
 第二に、私たちは〈はからずも〉罪深い者だというのです。嘘をたくさんつきましょう。弱い人を虐めましょう。約束なんて適当でよろしい。そんなふうに私たちは教わっていないのに、なぜか嘘をつく、弱い人を攻撃する、大事な約束まで破ってしまう。戦争を始めてなかなか終えることができない。
 聖書に出てくるある人物は〈私は咎ある者として生まれ 罪ある者として母は私を身ごもりました〉(詩篇51:5)と告白しました。人が罪を犯すだけでなく、罪が人に罪を行わせます。生まれたときから罪人であるならば、私たちは〈はからずも〉罪深い者です。
 第三に、神はそんな人間を愛してイエス・キリストをこの世界にお遣わしになりました。イエス・キリストが全世界の人の身代わりに十字架にかかって死なれたのは二千年前のことでした。私たちがキリストに頼んだわけでもないのに、キリストは十字架による救いを実現されました。これもまた〈はからずも〉です。〈目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった〉(Ⅰコリント2:9)と聖書は言っているのです。
 この世界には、そして人生には、悲しい〈はからずも〉も多いのですが、それを覆うような大きな嬉しい喜びの〈はからずも〉があるのです。人の側が計画をしていなくても、イエス・キリストの十字架がそうであったように、初めは困難で苦しくて、その苦しみの意味が見えなくても、これしかないと思えるほどの神の善き計らいがこの世界にはあるのです。

 Y兄とN姉は、それぞれ聖書を読んで、神に祈る生活をしています。四六時中(祈っている)という意味ではなく、長い一日の数分であっても、その時間を確保しているという意味です。
 本日の婚約式から二人の結婚準備がいよいよ進みます。式の準備や、決まった新居の整えもあるでしょう。それぞれの仕事をしながらですから、いよいよいそがしくなります。しかし、そんなときこそ、聖書を読んだり祈ったりする時間を大切にしてください。
 最後にもうひとつ聖書のことばをお示しいたします。伝道者の書4:12〈一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない〉。結婚はただ幸せになるだけでなく、苦難や試練を協力して乗り越えることです。しかし聖書は、ここで「二つ撚りの糸」とは言わず〈三つ撚りの糸〉というのです。
 キリストを信じているあなたと、キリストを信じているあなたが、二人となって歩み始めると、神もまた共にいてくださる。これが〈三つ撚りの糸〉です。聖書を読み、祈り、教会に通う。それは、当たり前の生活のなかに、イエス・キリストを迎えていることです。神の恵みを留めようとして、できることです。
 私たちの人生は善し悪し超えて〈はからずも〉に満ちています。しかし全知全能の神にとって〈はからずも〉はありません。偶然はないのです。だとしたら、どんな方の人生にも、神からの目的と役割があるはずです。神からの目的と役割は、使命と言ってもいいでしょう。使命とは、命を使うと書くのです。
 私たちひとりひとりが生まれたことも実は〈はからずも〉ではない。結婚に導かれる出会いも、またそうです。私たち人間にとっては〈はからずも〉の連続のようですが、すべては神の御手のうちにある。そして私たちは悪戦苦闘しながらも、神からの使命(天命)をやがて悟るのです。それは「人事を尽くして天命を待つ」といった消極的な信仰ではなく「天命を信じて人事を尽くす」といった積極的な信仰となるのです。
 
 一言祈ります。「イエス・キリストの父なる神。本日、私たちはKY兄とKN姉の婚約式に立ち会いました。どうか11月30日の結婚式の日までお二人の歩みを聖く保たせてくださり、簡単には切れない〈三つ撚りの糸〉として歩ませてください。私たちの人生は、思いもかけない〈はからずも〉に満ちていますが、あなたはすべてをご存じで、すべてを計らっておられます。このたびの婚約や、その後の生活をとおして、お二人が神から与えられた使命を十分果たしていけるよう祝福してください。私たちの救い主、十字架で死なれた栄光の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。


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