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2024年5月5日礼拝説教「見よ。兄弟たちが~都上りの歌⑭~」(詩篇133:1~3)

聖書箇所  詩篇133:1~3
都上りの歌。ダビデによる。
133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。
133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。
133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

参考聖句
マタイ 18:20
二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

民数記 23:19
神は人ではないから、偽りを言うことがない。人の子ではないから、悔いることがない。神が仰せられたら、実行されないだろうか。語られたら、成し遂げられないだろうか。

ヨハネ 13:34-35
13:34
わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

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説教ノート 序 クイズ
① 礼拝が終ったら
② 交わりの祝福
③ 私たちの礼拝後

見よ、兄弟たちが
詩篇133:1-3
 今年の2月に東京地区連合の役員研修会で「規約から考える教会の将来と現在」というタイトルでお話をする機会がありました。その枕としてクイズを出して、集まった人たちに関心を引いてもらおうとしました。そのクイズは三択問題なのですが「教会の本質は次のどれですか」という超ベーシッククイズです。
 皆さんもちょっと考えて答えを出してみてください。教会の本質は次のどれですか。①制度(規約)。教会が正しく運営されていくためには、決まりや約束事が大事でしょう。②建物(会堂)。実際に礼拝を行うために、集まるための場所が求められます。③人間(信徒)。教会は「聖徒の交わり」などと言われます。さあ、どれでしょう。
 答えは③です。制度(規約)も大事で、建物(会堂)も求められます。しかし教会を教会にするのは、制度でも建物でもなくて人間です。
 マタイ18:20にこうあります。〈二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです〉。
 イエス・キリストは、人としてこの世に来られました。十字架で贖いの死を遂げたあと、三日目に復活して、天に昇り、いまは父なる神の右に座っておられます。しかし、そのキリストが、地上に生きる当時の弟子たちや、今の私たちに〈わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます〉(マタイ28:20)と約束してくださいました。
 天に挙げられたキリストが、地上において目には見えないけれど現われてくださる。そのところを教会といいます。そしてマタイ18:20では〈二人か三人がわたしの名において集まっているところには〉と言われています。ですから教会の本質は、制度でも建物でもなくて人間です。主イエスの名前に導かれた人の集まりを教会というのです。
 本日は「見よ。兄弟たちが」と題を付けました。なぜ神を信じる私たちが、人にも注目することになるのか。そのあたりを味わう詩篇ではないのかと思います。
 一言祈りましょう。「天の神様。私たちを今日もあなたのことばの前に導いてくださってありがとうございます。会堂に集う者、配信や動画視聴で集う者、共に、主のあわれみのなかで御前に出ております。おひとりおひとりのうちに聖霊が臨んでくださり、説き明かされたみことばのなかで悟りをいただき、今週も、キリストの生き証人として歩ませてください。神の御子である主イエスのお名前で祈ります。アーメン」。
 
(礼拝が終ったら)
 都上りの歌も14ばん目です。一連の詩篇を続き物として読むならば、敵の攻撃に悩みつつ、エルサレムに向けて旅立つ信仰者。神に祈りを、そして礼拝をささげるためでした。神殿に入った信仰者は、罪深い自分を自覚しつつも、神の贖いによる罪の赦しを覚えました(130篇)。信仰者の心は、静かな心となり、まるで母親と共にいる〈乳離れした子〉のようでした(131篇)。そしてこの神殿が築かれる発端となったダビデ王の熱心を思い巡らし、神のシオンに対する選びが歌われます(132篇)。
 かくして信仰者は祈りを最後までささげ、礼拝の時は終わりました。あとは、神殿を去り、家路へと向かうだけですが、この礼拝体験には余韻が残りました。それは、ひとりではなく、他の人たちと礼拝をささげた幸福感。同じ時間に神殿に入った人たちと、祈りを共にできた感情の高まりでした。
 信仰者である詩人は言います。〈見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは〉。
 心を神に集中して、神を礼拝しました。礼拝を終えて、自分と同じように、神のことばに聴いた人たちがいる。神に心を注ぎだした人たちがいる。〈【主】よ〉で始まった3つの詩篇のあとに、この133篇は神信仰を共にした仲間の人たちに目線を向けよう、向けさせようとするのです。〈見よ〉と。
 もちろん、神と人とは区別されなければなりません。〈神は人ではない〉(民数23:19)のです。神は人間性の延長ではありません。世界をお造りになった神は、聖なる方であり、偽りを言うことなく、悔いることもありません。また、神が仰せられたことは必ず実行されます。
 しかし神は、神を礼拝すればそれでいいというのではなく、神は、人間に自分自身と隣人と世界に目を向けるように願っておられます。
 とくにキリストの弟子に対しては、そうなのです。ヨハネ13:34〈わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい〉。
 ある人たちは、大切なのは自分と神様の関係だけだと主張します。私もそうした考えの影響を若い時に受けていました。しかし、そうではありません。聖書のことば、それも私たちの救い主が〈新しい戒め〉として〈互いに愛し合いなさい〉と教えているのです。互いに~することは、決して単独(ひとり)では守れない戒めです。
 決して人間ではない神を信じて、それぞれの信仰の決断があって、私たちは救われますが、キリストの弟子とされて〈新しい戒め〉を受けるのです。信じるに至るまで、先人たち、そして信仰の先輩たちの働きかけがありました。そのような先駈けの存在も、また信仰の同期生も、また後輩も、併せて私たちは〈新しい戒め〉に生きるのです。
 他の別の人たちは、キリストの弟子たちは、「伝道の実践のみが大切である」と説くかもしれません。もちろん伝道の実践は大切で、それぞれ重荷のある伝道の方法に励むべきです。私は、ポスティングによる案内配布が好きです。もちろん、このような説教を通してキリストの福音を伝えたいのです。
 しかしポスティングや説教以上に効果的な伝道方法があります。イエス・キリストが弟子たちに〈新しい戒め〉を伝えたときに、この〈新しい戒め〉の効果についてもお語りになりました。ヨハネ13:35〈互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります〉。
 互いに愛し合う〈新しい戒め〉の実践によって、私たちがひとりの師(先生)の弟子たちであることが、世の人々に伝わります。
 そして〈新しい戒め〉の実践は、ただのアリバイ工作に過ぎないような中途半端なものではありません。なぜなら互いに愛し合う実践は〈わたしがあなたがたを愛したように〉とあるように、キリストの十字架の愛を手本とするからです。礼拝で福音を聴くことや聖餐式が、礼拝後の交わりにも、また一週間の実生活にも大いに反映されるところなのです。福音的な神礼拝が、交わりにも生活にも影響を与えます。
 詩篇133:1には〈兄弟たちが一つになってともに生きる〉とありました。〈兄弟たち〉というのは血縁者のみを指すのではありません。むしろ信仰の仲間たちのことです。
 また〈一つになってともに生きる〉の〈生きる〉と訳されていることばは二通りの意味があります。ひとつは〈座る〉という意味で、それはまさしく礼拝で神のことばを聴くことです。もうひとつは〈住む〉という意味で、まさに生活実践そのものです。〈一つになってともに生きる〉という表現は、礼拝と生活、その両方を含むのです。
 
(交わりの祝福)
 133:2-3〈それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである〉。
 礼拝と交わりにおける一致と共生の祝福が歌われたあと、後半の2-3節では、その特徴が述べられています。3つの点から指摘されています。
 第1は、礼拝と交わりによる一致と共生は、貴い油のようだからです。
 第2は、礼拝と交わりによる一致と共生は、山々に降りる露のようです。
 第3は、主が、礼拝と交わりにおける一致と共生に、永遠のいのちの祝福があります。
 順に見ていきましょう。
 第1の貴い油には、第2の露のたとえにも共通しますが、上から下への動きがあります。頭の上に注がれた油は、髪の毛を伝い、顔の下のほうの髭にも達し、さらに衣の下にまで流れ滴ります。一致して共に生きる仲間(兄弟姉妹)の存在も、その存在によって広がる幸いや楽しさは、神によって天からもたらされるものです。そして四方八方に、油そのものと共に、よい香りが広がります。
 そしてその貴い油が注がれている人としてアロンの名前が記されています。アロンとは、モーセの兄のアロンであります。時にはモーセの代弁者、そして協力者として、出エジプトの大事業を共に担った神の人のひとりです。そして何より、このアロンから、神に任命された祭司の一族が生まれます。すなわち、この油は、任職の油です。
 王と預言者と祭司は、直接、神に仕える重要な仕事として三職と呼ばれることがあります。キリストは、僕となった王、自らが神のことばでもあった預言者、自らが犠牲そのものでもあった祭司(犠牲をささげる人)であり、キリストの三職と呼ばれます。
 それはともかく王も預言者もそうですが、アロンのような祭司も、祭司となるとき、任職のしるしとして油を注がれます。互いに愛し合うことが、キリストの弟子の証となることが、この貴い油のたとえからもわかります。
 第2に、ヘルモン山というエルサレム近郊で最も高い山から、他の山々に降りてくる露のようだというのです。イスラエルは、高地から死海の畔のような低地まで高低に富んでいるのですが、標高が下がれば下がるほど灼熱の砂漠地帯(荒野)であって、水が貴重になります。たとえ露のような少量であっても、水は貴重なのです。
 そのように、信仰者の礼拝と交わりから来る一致と共生は、まるで砂漠のように、潤いの乏しい社会の現実のなかで得がたいもの(貴重なもの)です。その点では、祭司任命の時に使われる高価な油にも匹敵するでしょう。
 そして第3には〈【主】がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである〉とまとめます。第1に貴い油、第2に高い山からの貴重な水、と続きましたが、それは単なる水と油ではなく、聖霊のこととして連想を働かせたいのです。聖霊は灯を灯す油にたとえられ、またキリストによって水は露どころか〈人の心の奥底から流れ出る、生ける水の流れ〉にたとえられます。
 
(私たちの礼拝後)
 本日、私たちは説教のあとに、キリストの十字架を記念する聖餐式に与ります。また、先週の礼拝後、有志の提案で急遽決まったのですが、教会の庭のほうでピクニックをします。ピクニックとは、野遊び、遠足の意ですが、あまり歩けない方のためには、教会の庭がいいと思いました。また日射しがきつい方は会堂内で召し上がればいいのです。
 実に、この世界は互いに愛し合うことに失敗しています。とりわけ2024年、2つの戦争が続いている現在は、あまりにも分かりやすいのです。
 ロシアとの戦争で、ウクライナはアメリカから武器供与を受けなければ、詰んでしまいます。またイスラエルはたとえハマスと停戦してもガザ地区への攻撃は止めないと言っています。そういう意味ではアメリカの動向が重要です。大統領選挙も大きな話ですが、30以上の大学で1500人以上の逮捕者が出すほどに、学生たちの反戦デモがアメリカの世論に影響を与えています。私たちは、油を注がれた祭司として、今週も世界のためにとりなしの祈りをささげましょう。
 互いに愛し合うことに失敗してきた、この世界。私たちも例外ではありません。しかし、そんな世界で、互いに愛し合うことに見事成功している教会があるなら、たしかに世の多くの人は魅せられることでしょう。私たちの自然な性質に、深い愛も広い愛もありませんが、私たちには聖霊が与えられていて、その聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているのです(ローマ5:5)。その愛とは、イエス・キリストの十字架の上の大きな犠牲の愛、贖いによる救いの愛に他なりません。
 ヘルモン山よりも高い、神からの愛によって、私たちがシオンの山々の露として、この世で生かされますように。
 一言祈ります。
「主よ、私たちを礼拝においても交わりにおいても、聖霊の油注ぎによって助けてください。世界の主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。




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