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2024年7月21日礼拝説教「エステルの奉仕~究極の隣人愛~神を愛する人生⑥」エステル4:1~17

聖書箇所 
エステル書4:1~17
4:1 モルデカイは、なされたすべてのことを知った。モルデカイは衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った。
4:2 そして王の門の前のところまで来た。王の門の中には、粗布をまとったままでは入ることができなかったのである。
4:3 王の命令とその法令が届いたどの州においても、ユダヤ人の間には大きな悲しみがあり、断食と泣き声と嘆きが起こり、多くの人たちは粗布をまとって灰の上に座った。
4:4 エステルの侍女たちとその宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女はモルデカイに衣服を送り、それを着せて、粗布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。
4:5 エステルは、王の宦官の一人で、王が彼女に仕えさせるために任命していたハタクを呼び寄せ、モルデカイのところへ行って、これはどういうわけか、また何のためかと聞いて来るように命じた。
4:6 ハタクは王の門の前の、町の広場にいるモルデカイのところに出て行った。
4:7 モルデカイは自分の身に起こったことをすべて彼に告げ、ハマンがユダヤ人を滅ぼすために王の宝物庫に納めると約束した、正確な金額も告げた。
4:8 また、ユダヤ人を根絶やしにするためにスサで発布された法令の文書の写しを彼に渡した。それは、エステルに見せて事情を知らせ、そして彼女が王のところに行って、自分の民族のために王からのあわれみを乞い求めるように、彼女に命じるためであった。
4:9 ハタクは帰って来て、モルデカイの伝言をエステルに告げた。
4:10 エステルはハタクに命じて、モルデカイにこう伝えた。
4:11 「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
4:12 彼がエステルのことばをモルデカイに告げると、
4:13 モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。
4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
4:15 エステルはモルデカイに返事を送って言った。
4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」
4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした。

参考箇所
ヨハネ1:47
イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」

参考箇所
ローマ2:28-29
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

参考箇所
エステル2:10&20
2:10エステルは自分の民族も、自分の生まれも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはいけないと彼女に命じておいたからである。
2:20 エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号  


説教アウトライン     
① 本物の信仰者?
② 信仰を公にする
③ エステル書の三つの特徴
④ エステルのために祈れ

エステルの奉仕~究極の隣人愛~
エステル4:10-17

(本物の信仰者?)
 牧師に成り立てのころは失敗談に事欠きません。教会に来ているクリスチャンの青年から、キリスト教信仰に関心を持っている青年がいるから「会って話をしてみてください」と言われました。教会にその青年が来たのなら、もっと違うことを話したのかもしれませんが、屋外の何かのイベントでその青年を紹介されたのです。
 牧師もクリスチャンも他の人間と変わらないということをまず見せようと思って、その自分より10歳くらい若い青年に『週刊少年ジャンプ』の話をしました。漫画の話は嫌いではなかったので、調子に乗ってしゃべりすぎました。するとその青年は、あとで、私を紹介したクリスチャンの青年に「あの人は偽牧師だね」と言われたそうです。
 相手が何をそのとき必要としているか(聞きたいか)よりも、自分が話したいことをしゃべろうとする、そういう残念な特徴が私にありました。ほんとうに残念です。今朝はなぜこんな失敗談から始めるのでしょうか。
 実は、こんな恥ずかしい私と正反対な人物が聖書には出てくるからであります。ナタタエルといいます。ヨハネ福音書に出てくるイエス・キリストの弟子のひとりです。イエス・キリストは、ナタナエルという名の弟子に初めて出会ったとき何と言ったでしょうか。ヨハネ1:47に、その記録が残っています。
 ヨハネ福音書1:47〈イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」〉。
 主イエスはどうもナタナエルがこっそりとしていた善いことを知っておられた。それでナタナエルも驚いて主に心を開いたらしいのです。そのときの誉め言葉のひとつが〈まさにイスラエル人〉という言い方でした。〈まさにイスラエル人〉は〈ほんとうのイスラエル人〉とか〈まことのイスラエル人〉と言い換えることができます。
 そして、この場面についてシュラッターは、主イエスはどれほど偽物のイスラエルをこれまで見てきたか、本物の信仰者に渇いていたかと注解しています。
 新約聖書のパウロは、同胞でもあるユダヤ人に、手心を加えていないように見えます。ローマ2:28-29〈外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます〉。本物の信仰者とは何でしょうか。「自分は偽クリスチャンではない」と、だれにどうやって申告すればいいのでしょうか。

(信仰を公にする)
 ある人たちは、クリスチャンとはキリストの証人なので、自分がキリスト者であることを恥じてはいけない。いつ、いかなるときも、自分がキリスト者(クリスチャン)であることを名のりましょう、と教えます。それは、ほんとうなのでしょうか。いつ、いかなるときも、当てはまるのでしょうか。
 たとえば家族もコミュニティも全員信仰者(クリスチャン)という環境があります。そういう環境で「私はクリスチャンです、イエス・キリストを信じます」と言えば、周りから拍手喝采を受けるでしょう。
 逆に、家族も含めてどこに言ってもクリスチャンがいない環境で「私はクリスチャンです、イエス・キリストを信じます」と言えば、どうでしょうか。無視されたり、からかわれたりするなら、ましなほうです。キリストの信仰を告白すれば、家族から縁を切られる。仕事を失う。近所の人から暴力を受ける。警察に捕まる。一生刑務所(牢屋)に入る、信仰を捨てなければ実際に殺されるという場合もありえるのです。
 主を証しする。それは聖霊が臨むことで私たちは主イエスの証人になれるでしょう(使徒1:8)。しかし、その置かれた場所で、どのように主を証しすればいいのか。世界にはたくさんの国があります。イランのようなイスラム教の強い国もあります。そこには、私たちの想像を超えた迫害が待っているはずです。

(エステル書の三つの特徴)
 私たちが今日開いているエステル書は、不思議な書物です。考えようによるのかもしれませんが、いくつかの特徴があります。
 まず、このエステル書には〈神〉ということばが一語も出てきません。しかし、まことの神を、無視したり軽く扱っているわけではありません。むしろ当時のユダヤ人はもちろんですが、私たちいまを生きる読者にもわかります。〈神〉ということばはないけれど、出来事の動きから、神の御手による摂理的な守りを感じることができる内容です。
 次に、旧約聖書のなかでもペルシアが舞台になっているのがユニークです。このころ中近東の覇者は、バビロニアからペルシアに移っていました。バビロニアは、支配した民族を(とくに優秀な人たちを)自分の国に強制的に連れていき、官僚などにして使役するということがありました。ユダヤも70年バビロン捕囚の憂き目に遭っています。
 しかしペルシアは、バビロニアに取って代わると違う政策を行います。他民族を征服し支配が始まると、強制移住はさせませんし、その民族の宗教についても寛容な立場を取ります。このペルシアの台頭があったので、ユダヤはバビロン捕囚を終えて故国に帰り、神殿や城壁を再建することができました。信仰の営みも復活していくのです。
 しかし、そのように移動自由な時代に、パレスチナといいますか、ユダヤの地に戻らないユダヤ人たちのいたことがわかります。しかもエステルの親代わりであり後見人であるモルデカイは、ペルシア王のお后募集にエステルをエントリーさせ、エステルは、異教徒であるクセルクセス王と結婚するのです。
 同じような時期のユダヤの国では、律法学者エズラの指導により、ユダヤ人と異邦人が結婚していたら離婚させるという荒療治を行っていたのです。聖書に書いてありませんが、モルデカイはどうしてエステルを「次のお后」コンテストにエントリーさせたのか、理由が謎であります。
 さらにモルデカイは、エステルに信仰を公にしないように勧めています。2:10〈エステルは自分の民族も、自分の生まれも明かさなかった。モルデカイが、明かしてはいけないと彼女に命じておいたからである〉。そしてお后に決まってからも2:20〈エステルは、モルデカイが彼女に命じていたように、自分の生まれも自分の民族も明かしていなかった。エステルはモルデカイに養育されていたときと同じように、彼の命令に従っていた〉と書いてあります。
 もうひとつ触れたいのは、エステルの夫となったクセルクセス王の怒りっぽさです。短気と言ってもいいほどです。1章では先のお后ワシュティが離婚になりますが、それはワシュティの振る舞いがクセルクセスのプライドを傷つけたからで、ワシュティに致命的な落ち度があったとは思えません。
 クセルクセスはペルシア王であって、たとえばバビロニアのように強制的な他民族支配をしない王のひとりです。しかし、やはり自分の思うがままにできる支配者だったからでしょう。強い民族差別が本来はありませんでしたが、悪漢ハマンの計略でクセルクセスはユダヤ人皆殺しの告知を国中に送ることになりました。このあたりでも外では上手に振舞えても、自分の内心や家族を正しく治めることができない点が見えます。
 さらにいえばクセルクセスは、民族的な差別意識は希薄でも、男女差別においては濃い人だったのではないでしょうか。当時の人たちは、皆がそうだったかもしれませんが、1章で前のお后ワシュティを離婚したことで、クセルクセスの性格は、人を信じたりするよりも疑いの目で見ることが強まったのではないでしょうか。
 〈召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令〉(4:11)は、その最たるものでしょう。そのような当時のペルシア王の狷介さを考えると、どうしてモルデカイはエステルに王妃になる道を進ませたのか、謎であります。

(エステルのために祈れ)
 エステル書の特徴を説明しました。エステルは、外見が美しいだけでなく、内面も聡明で、しっかりとした心や信仰を持った女性だったと思います。
 ハマンの陰謀でユダヤ人の虐殺がペルシア国全体のタイムスケジュールになると、モルデカイは〈衣を引き裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で激しくわめき叫びながら都の真ん中に出て行った〉(4:1)。さらに王の門の前まで進み、残酷で不当な法令に抗議する、言ってみれば「ひとりデモ」を行っていました。いまや王妃となったエステルの関心を、もちろん、呼び覚ますためでもあったでしょう。
 ハタクという宦官を介してモルデカイとエステルは遣り取りをします。ユダヤ人であることを隠したまま、王の王妃を続けているエステルでしたが、いまやそれを隠すことなく、王の法令を取り消させるようにとモルデカイは伝えます。
 それに対してエステルは答えました。4:11〈「王の家臣たちも王の諸州の民も、だれでも知っているように、召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は生きながらえます。私はこの三十日間、まだ王のところへ行くようにと召されていません。」〉。
 たとえ王妃であっても、王に来やすく近づくことは困難になっています。加えてここひと月のクセルクセスは自分に無関心のようです。エステルは事柄の難しさを述べています。何事も立場が高ければスムーズに行くというわけではありません。
 それに対するモルデカイの答えはこうでした。4:13-14〈「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。4:14 もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」〉。
 神の救いのご計画であっても何であっても、神のご計画(御心の実現)における人間の貢献というのは、相対的なものなのです。「私がいないと、神の御心は動かない」、そういうふうに奉仕を考えてはならないのです。たしかに自分にこの立場や地位が与えられているのは、こうした賜物や能力が与えられているのは、神の御心の実現のためだけど、そのことで人が決して神の上に立つことはないのです。
 求めなければならないのは、自分が神から与えられたもの(預けられているもの)を神が願われる(神が喜ばれる)ように使って、自分も神の歴史の一員として生かされるということです。あなたは神に迫られているのに、沈黙を守ろうとしていることはないでしょうか。私たちはそれぞれユニークですが、神のチームとして世界に置かれているのです。
 エステルはかくて覚悟を決めました。4:15-17まで読みます。〈エステルはモルデカイに返事を送って言った。4:16 「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」4:17 モルデカイは出て行って、エステルが彼に頼んだとおりにした〉。
 隣人愛は、自分を生かし、そのように他の人も生かそうとすることが基本です。しかし究極の隣人愛は、自分を生かさず、他の人を生かそうとします。イエス・キリストの十字架がまさにこの究極の隣人愛でした。エステルは、自分の民俗も信仰もこれまで語らなかったけれど、この特別なときに立ち上がる覚悟を決めました。
 そしてモルデカイをはじめとする同胞に断食するほどの祈りを求めました。本日と明日、私は妻の母の葬儀を導きます。お祈りください。また今週末から来主日にかけて連合の最も遠く最も小さい地区連合でチームを率いて奉仕をします。お祈りください。
 そしてそれにも増して、エステルのような心境で今週祖国に帰るファテメ姉のために私たちは続けて祈りましょう。一食くらい断食しても大丈夫でしょう。私たちの教会はエステルをイランに送るのです。一言祈りましょう。


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