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2024年5月26日礼拝説教「エノクのごとく~神と共に歩む~神を愛する人生①」(創世記5:18~24)

(本日の中心聖句) 
創世記 5:18~24
5:18 ヤレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。
5:19 ヤレデはエノクを生んでから八百年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:20 ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。
5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。  

(参考聖句) 創世記5:1~3
5:1 これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、 5:2 男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。 5:3 アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

(参考聖句) ヘブル11:5~6
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
11:6a 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。

(参考聖句) ヨハネ11:25~26
11:25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

(参考聖句) Ⅰテサロニケ5:10
主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。

(参考聖句) ローマ14:8
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

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説教ノート    
序 神を愛する人生
① アダムから七代目
② エノクの回心
③ エノクはいなくなった

エノクのごとくに~神と共に歩んだ~
創世記5:18-24
 先週、教会の23年度決算総会が感謝のうちに終りました。新しい年度が4月から始まっていますから、今年度のテーマにますます取り組めたらと思います。
 今年度のテーマは何でしょうか。週報の右上に書かれているのですが、それは「神を愛する人生」です。この教会は、神の導きのなかで、これからも新しい方を加えていくでしょう。新しい方が加わって、新しい方も古い方も、主に感謝してひとつの群れとなるためには、ある程度の合意consensusが必要だと考えました。
 それが三年越しのテーマ「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」です。
 私たちは「千葉ニュータウンがキリストが崇められる街々に」されていくことをビジョンとし、「聖霊の力で福音を伝え、自由と慰めと喜びと成長がある教会」を目指しています。それは変わらないのですが、今年度からの三年はとくに「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」という考えを深めていこうと願っています。
 テーマ「神を愛し、世界を愛し、教会を愛する群れ」。4月からの2024年度は、とくに「神を愛する」ということです。神を愛するとは、神に愛されていることがわかって実現します。神からの愛がわからないと、人は神を頭でわかっても、心から愛するようになりません。また神を礼拝することにおいても、神の愛がわからないと喜んで礼拝できません。神に従うことにおいても同じです。愛がわかってこそ、喜んで従います。
 詩篇120篇から134篇までの都上りの歌を、年が明けてから毎週の礼拝で学んできました。時代は違いますが、神への礼拝に向かう心は同じと考えたわけです。「神を愛する人生」とは、神を崇めたいと願い、神に近づこうとする礼拝の人生です。
 しかし、それと共に、日常生活も含め、この世の中で全時間、神に喜んで従おうとする人生もまた「神を愛する人生」です。それで何回くらいのシリーズになるかわからないのですが、しばらく礼拝で、聖書(とくに旧約聖書)の人物を取りあげながら「神を愛する人生」とはどんな人生か味わっていきたいのです。
 本日は、創世記5章の系図に出てくるエノクという人物に焦点focusを当てて「神を愛する人生」について考えます。一言祈りましょう。「イエス・キリストの父なる神。お名前を崇めます。あなたは、私たちに、あなたを礼拝する時と場所を与えてくださいました。そして、あなたに信頼し、あなたを喜ぶ生活、あなたの御心に喜んで従う人生に導いてくださいますから感謝します。あなたは私たちひとりひとりの一週間を導いてくださいました。続けて、この新しい七日間も助けてください。日々の糧を与え、罪を赦してくださる十字架の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
 
(アダムから七代目)
 聖書を直に読んだことのない方でも、アダムという名前を、その妻エバという名前と共に聞いたことがあると思います。聖書に出てくる最初の人類、最初の夫婦です。
 アダムとエバは、神を礼拝し、この世界を正しく治め、互いに助け合う、特別な存在、〈神のかたち〉(創世記1:27)として造られました。しかしアダムとエバは、神の戒めを破り、悔い改めることもしませんでした。それゆえに、人が労働を通して管理すべき世界は、人にとって苦しみと空しさに満ちたものとなりました。同時に、人間同士が互いに助けあうことも困難になりました。責任転嫁を現実の人間はするようになり、相手に仕えることより、支配したり・されたりすることを求めるようになったのです。
 そのように神からの祝福を失い、エデンの園からも追放された人類でした。しかし、人類は生き延びることを許されます。神に背いて離れたこと(罪)にあまり頓着しない生き方と、神に背いて離れたこと(罪)を覚える生き方の、二つの流れが生まれました。
 弟アベルを殺したカインの流れ(子孫)は、神に背いて離れたこと(罪)にあまり頓着しない生き方です。アダム、カインと続く7代目は、創世記4:17-24に出てくるレメクという人物で、経済や芸術や技術を発展させますが、複数の妻を持つ人物で、何より自分が最高に偉いと考えていて、自分に害をなす者はためらいなく殺すと言い放つような独裁者でした。
 それに対してアベルの死後にエバが生んだセツの子孫は、アダムの子孫ですから罪の影響はあるのですが、神から離れた罪を自覚し、神に祈る人たちでした(4:25-26)。
 そして創世記5:1-3にこうあります。〈これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿として人を造り、5:2 男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。5:3 アダムは百三十年生きて、彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた〉。アダムからカインへと続く流れは7代目のレメクまでで記述が終りましたが、アダムからセツへと続く流れは新たな区切り(5:1)を設けて10代目のノアまで書き記します。そして、アダムからセツへと続く7代目は今日の中心人物エノクです。
 聖書には系図がたくさん出てきますが、この創世記5章の系図にはユニークな特徴があります。まず何歳で跡継ぎを生んだのか、跡継ぎが生まれたときの親の年齢を書き記していることです。
 次に、その代々の寿命は、本日のエノクを例外として、930歳、912歳、905歳、910歳、895歳、962歳、969歳、777歳と信じられないような長寿です。これはセツの流れの祝福を表現しているのかもしれません。ノアの大洪水の前までは地球環境が今と大きく異なっていたと説明する人もいます。しかしたしかにセツの一族は長寿でしたが、誰ひとりとして1000歳に届いてはいません。ある人(河野勇一)は、こう説明しています。「千年とは永遠のいのちに匹敵する概念であると考えるなら、罪を犯した人間はだれも永遠のいのちに達することができないということでしょう」。
 そして、この創世記5章の系図の第3の特徴は、ひとりの例外を除いて〈こうして彼は死んだ〉と記されることです。皆さん、もし機会があったら、おひとりでも、家族やお友達とでも、この創世記5章を音読してみてください。
 もう半世紀以上前ですが、能登半島のある教会で、熱心な女性の伝道者が、子どもたちを集めて聖書研究会を毎週のように開いていました。あの時代であっても、ふつう、教会の子供会で創世記5章の音読はしないと思いますが、熱心なその女性の先生は、聖書を文字通り「順番」に伝えたいと考え、実践したらしいのです。
 子どもたちは、もしかしたら水曜日の祈祷会でしているように、1節ずつ順番に音読していくやり方(輪読)をしたのかもしれません。この創世記5章を、子どもたちは読みました。声に出して、アダムからの系図(創世記5章)を読んだ子どものひとりは、泣き出して、こう言ったそうです。「先生、みんな死んじゃうんだね」。
 愛する皆さん、私たちは子どもを生んで育てて、あるいは別のかたちで次世代に善いものを残すことができるかもしれません。そして900歳は無理ですが、現在では100歳以上の高齢者が日本国内では92,000人以上おられるそうです(2023年9月1日の住民台帳)。しかし残念ながら200歳まで生きる人はいないのです。人はたしかに地上の生涯を終えるときが来るのです。私たちは〈神に会う備え〉(アモス4:12)をすべきです。
 
(エノクの回心)
 信仰者の流れ。セツの子孫で、アダムから数えて6代目のヤレデの子としてエノクは生まれました。そしてエノクはどこかの時点で結婚したのでしょう。5:21〈エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ〉。エノクは人の親となります。65歳の時です。
 そして5:22-23〈エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった〉。
 エノクの子どもは、跡継ぎのメトシェラだけではありませんでした。〈息子たち、娘たち〉。名前はわかりませんが、複数の子どもを得て、養育する人生でもありました。しかし、そればかりではありません。5:22にはこう書かれています。〈エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み〉。メトシェラは、おそらく最初の子どもでしょう。しかし人の親になっただけでなく、エノクに人生の根本的な変化が生まれました。〈神とともに歩む〉ようになったというのです。
 まずヤレデの子としてのエノクを考えてみましょう。エノクは今でいうクリスチャンホーム(信仰者の家庭)で生まれ育ちました。あなたはどのようにしてクリスチャンになりましたか。そういう質問に、ある人は、こう答えます。「私はお母さんのお腹にいるときからクリスチャンでした(教会に通っていました)」。しかし私は違う答えをする人のほうがどちらかというと好ましく思います。「私はクリスチャンの両親のもとに生まれ育ちました。しかし、それだけでクリスチャンになるわけではありません。私が個人的に主イエスを自分の救い主(あるいは神)として信じたときがあります」。それは、小学校に上がるか上がらないかの年齢だったかもしれませんが、人は聖霊によって新しく生まれなければ神の国に入ることはできないはずです(ヨハネ3:3-8)。思い出しましょう。
 もうひとつ。これは私自身のことでもありますが、エノクは親になることにプレッシャーを感じたのかもしれません。私は自分の父を軽んじるところがありました。ところが自分自身が親になろうとするときに、自我の一部が破れました。父が自分に与えてくれたものは大きくないとしても、父から与えられたものさえ自分は生まれてくる子どもに与えることはできない。自分はこの子に譲るものは何もない、心底、そう思いました。すでに伝道者であったので、とくに経済的なことにはまったく自信がありませんでした。しかし、そのとき、同時に別の確信が与えられました。「自分は子どもに譲るものは何もない。しかし神様がこの子に良いものを譲ってくれる」。そう信じることができ、平安になりました。そしてそのとき息子の名前を譲と付けることを決めました。
 ほんとうのところ、エノクさんはどうだったのかわかりません。しかし私たちは人生の危機のなかで、神と出会うことがあるのです。神と共に歩み始めることがあるのです。
 
(エノクはいなくなった)
 エノクは、生まれたときから神と共に歩んだのではなく、65歳の時から神と共に歩み始めました。神との生きた真の交わりは、氏でも育ちでもなく、ただ聖霊によるのです(ヨハネ1:13)。このなかで人生の転機turningpointを求めておられる方はおられないでしょうか。祈り求めて、救いの聖霊は与えられるのです(ルカ11:13)。
 さて今日の私のように信仰の決断を伴う回心を強調すると、違う意見を述べたくなる人たちがいることを私は知っています。一時的に熱心な活動をするけれど、ちょっとした行き違いや試練で教会を離れたり信仰を捨てたりする人を自分は多く見てきた。やはり信仰者をつくるのは回心ではなく教育である、継続した聖書や教理の学びである、と。
 そうかもしれません。否定できません。信仰は点で考えるだけでなく、長い線で考えることも大切です。しかし私は、今日、明らかにカルビニストと思われる寺田博牧師の次の注解を引用したいのです。創世記5:22の注解です。「ただし、神と共に歩くということは、神に対して、真に火花を散らすことなくしてはあり得ない。(中略)アダムの子らにあっては、神を信じるという事態は彼らのどこからも起こってくるのではない。アダムの罪に対して、神の恩寵が触ってくるのである。神の真実がさわってくるのである、そこに火花が散るのである。神の言が、アダムの罪にさわってくるとき、アダムの罪はスパークするのである。そのスパークが信仰である」。
 神と共に歩くということは、規則正しい礼拝と善良な生活を習慣づけることではなく、むしろ自らの罪を深く自覚しながら、神の恩寵(キリストの十字架に現れた、天からの恵み)がこれにまさることを信じて、聖霊に頼り続けることです。キリストの恵みと、神の愛によって与えられた〈御霊を消してはいけません〉(Ⅰテサロニケ5:19)。
 エノクは、神と歩むまでの65年、神と出会って〈神とともに歩んだ〉300年。エノクの生涯は365年でした。一年365日、3歩進んで2歩下がるような人生だったかもしれないけれど。あるいは次の章から活躍する、アダムから10代目のノアのように特筆すべき大事業はなかったかもしれないけれど。そして何より先祖や子や孫のように長寿ではなく365歳の短命だったのだけど。5:24でこう記されます。〈エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった〉。
 この系図でエノクだけが〈こうして彼は死んだ〉と記されないのです。〈神が彼を取られたので、彼はいなくなった〉。これについて新約聖書のヘブル書の記者はこう記しました。〈信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません〉(ヘブル11:5-6a)。
 初代教会が生まれた当時70人訳というギリシア語に翻訳された旧約聖書がありましたが、そこでは〈神と共に歩く〉ことは〈神に喜ばれる〉と意訳されているそうです。
 本日は午後から霊園に行き、墓地前で礼拝をささげますが、主イエスの次のことばがよく読まれます。ヨハネ11:25-26〈イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。11:26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」〉。復活の主が、私たちに、死んでも生きるし、永遠に決して死ぬことはないと言われています。主の力強い宣言ですが、クリスチャンは、実際に死ぬのか死なないのか、よく分からない言い回しでもあります。
 主ご自身が友人ラザロの死を眠っていると言ってみたり、はっきり死んだと言ってみたりしているところがあります(ヨハネ11:11-16)。実は、私たちは地上で死を迎えたとしても、後の日にはキリストのような栄光のからだで復活するし、たとえば生きているうちに主の再臨があれば、生きたまま永遠の神の国に入ることになります。〈主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです〉(Ⅰテサロニケ5:10)。加えて(ローマ14:8)。
 地上の人生の最後、肉体の死を掛値なしに受けとめながら、復活の主を信じ、私たちはエノクのように神と共に歩んでいきましょう。主イエス復活の事実は、神の贖いが罪と死の力に打ち勝った証です。神は私たちと共におられます。
「愛する神。私たちの人生は例外なく死に向かって歩んでいます。しかし、主が共におられ、個人的な礼拝や、このような礼拝、そして日々の生活のなかで、あなたの御心を悟らせてください。キリストのゆえに喜んで従います。主の御名で祈ります。アーメン」。




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