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2024年6月2日礼拝説教「テモテよ、とどまれ~聖書はあなたを救う~神を愛する人生②」(Ⅱテモテ3:10~17)

テモテよ、とどまれ~聖書はあなたを救う~
Ⅱテモテ3:10-17
 「神を愛する人生」という主題で、聖書から人物を取りあげて語るシリーズです。旧約聖書からなるべく取りあげるつもりですが、本日は新約聖書に登場するテモテを選んでおります。なぜテモテを選んだかというと、神を愛する人生にとって大切な要素のひとつとして「聖書を読む」ことがあります。これを皆さんと掘り下げたいからです。
 一言祈ります。「愛するイエス・キリストの父なる神。お名前を崇めます。新しい月、6月です。引き続き、私たちの歩みをお守りください。私たちの群れのなかに、いま試練の只中におられる方もおります。身体の健康や、経済、人間関係、家族のこと、将来への不安もあるかもしれません。しかし、あなたは、十字架にかかられた救い主のゆえに、私たちの人生を切り開く、別の言い方をすれば、私たちにそれぞれの人生を切り開かせてくださるお方です。主よ。私たちはあなたに信頼します。あなたのことばで今日も私たちを生かしてください。また、私たちは、この世界の悲惨のためにも祈ります。ウクライナとガザ地区での二つの戦争が終りません。他にも、血で血を洗うことが続いています。どうか私たちがいのちの遣り取りや破壊の連鎖に慣れっこになることがありませんように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
 
(パウロの晩年の状況)
 紀元68年、使徒パウロはローマで殉教します。その予感があったのでしょうか。それとも、パウロは、自分が年をとってしまった。心身の衰えを感じていたのでしょうか。この手紙の4:6でこう言っています。Ⅱテモテ4:6〈私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました〉。パウロは自分の死を予感しています。そういうこともあって、この手紙が書かれたのは、死の前年の紀元67年ごろと推定できます。
 パウロは70歳ぐらいだったかもしれません。ルカ福音書の続編である『使徒の働き』は、パウロのローマ到着で筆が置かれていますが、そこからすでに8年は過ぎています。ユダヤのほうでは、ローマに反乱を企てたユダヤ人と、鎮圧に乗り出したローマ軍との(第一次)ユダヤ戦争が、すでに始まっていました。
 ユダヤ人でもあるパウロにとって、故国も不穏なら、教会も不穏でした。旧約聖書の時代に偽預言者が大勢いたように、偽教師がたくさんいて、教会の健全な教えが曲がりそうになっていました。パウロの後継者たちは、偽教師に囲まれながら〈聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦う〉(ユダ3)必要がありました。
 霊的な緊張のなか、次世代のリーダーたちの戦いを励ますために、パウロは3通の手紙を書きました。エペソの教会にいたテモテに2通、クレタ島の教会にいたテトスに1通。この3通の手紙は牧会書簡と現在では呼ばれています。テモテ第2の手紙は、牧会書簡のなかでも、そしてパウロ13の手紙の中でもいちばん最後に書かれたものです。
 このテモテ第2の手紙が書かれたころ、教会の事態はより深刻だったのかもしれません。この手紙は、それほど長くありませんが、長さの割に残念な状態の信者の話が多いような気がするのです。Ⅱテモテ、この手紙の、4箇所を開きます。
 1:15〈あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れて行きました。その中にはフィゲロとヘルモゲネがいます〉。このフィゲロとヘルモゲネは、小アジア(トルコ地方)の信徒たちが、パウロから離反する原因をつくったと思われます。
2:16-18〈俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、2:17 その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。2:18 彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています〉。17節に名の記されたヒメナイとピレトは〈悪性の腫れもののように〉間違った説を広め、多くの人たちの信仰をおかしくしてしまいました。ヒメナイはテモテ第1の手紙にも出てきます。
 4:14-15〈銅細工人のアレクサンドロが私をひどく苦しめました。その行いに応じて、主が彼に報いられます。4:15 あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです〉。銅細工人アレクサンドロの名前が14節にはありました。このアレクサンドロも、第1の手紙に出てきます。懲りない人々というところでしょう。
 最後に、4:10a〈デマスは今の世を愛し、私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました〉。このデマスは、たとえばルカやマルコと名前を連ねるようなパウロの〈同労者〉(コロサイ4:10,ピレモン24)。テモテやテトスのように将来を嘱望されていたかもしれません。今風に言えば、教職者であるはずで、いわば伝道者のデマス先生でしょう。この時期、パウロのそばにいるのはルカだけのようですが、他の人たちと違って、デマスの場合ははっきりとした背教です。パウロにとっても、テモテにとっても、教会にとっても、広く大きな躓きshockだったでしょう。
 もちろんこのテモテ第2の手紙にも、〈オネシポロの家族〉(1:16-18)とかルカがいたり、マルコがあてにされたり、ティキコをエペソへ派遣したり(4:11-12)、あるいは末尾に人々の消息(4:19-21)があるように、残念なことばかりではありません。遠くにも近くてもパウロと同じ信仰に立つ同労者がいるのです。
 しかし、この手紙の背景を探っていくと、どうしてもこの時期の教会、とくにパウロは孤独で、難しい状況と言わざるを得ません。本日開いている3章の前半には、これから困難な時代が来ると予告しながら、実はすでにパウロの周りには〈見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者〉(3:5)がいるようです。そして〈悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます〉(3:13)と断言するのです。
 
(キリスト教は御利益信仰にはならない)
 しかしパウロは、この手紙でもテモテに全幅の信頼を置いています。3:10-11、パウロはこんなふうに言っています。手紙を受けとるテモテは、今までパウロによくついて来てくれた。それだけでなく、9つの分野において、嫌がらず、よくついて来てくれた、いや、むしろ自分を追いかけてさえくれた、と言っています。
 それは、パウロの教えに、生き方に、計画に、信仰に、寛容に、愛に、忍耐に、そしてパウロの受けた迫害と苦難に、今はイタリアのローマとトルコのエペソ、遠く離れているけれど、テモテは自分について来てくれた!と喜んでいるのです。これは、パウロに倣って、助ける者が、やはりこのとき少なかったことの裏返しかもしれません。
 私は、他の宗教に入信をしたことがないのでわかりません。しかし世の中の宗教には、そこに入れば良いことばかりで、健康も経済も人間関係もすべて解決するように教えている団体もあるのではないでしょうか。しかしパウロはこの手紙でも、人から受ける迫害や、そうでないものも含めての苦難についても、隠すことをしていません。
 パウロは言っています。3:12〈キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます〉。キリストを信じる者として、神を愛して生活すれば、迫害がないのではなく、迫害のあることがむしろ約束されているのです。キリストを信じる道が、いわゆる御利益宗教ではないことが、このことばからよく分かります。
 そしてモデルであるパウロ自身が、伝道者として、たぶん、だれよりも多く働きました(Ⅰコリント15:10)。また迫害を受けることも、人一倍でした(Ⅱコリント11:21-28)。そしてパウロは、今日の箇所でこう言っています。3:11b〈私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました〉。
 イエス・キリストは多くの人に憎まれ、十字架にかかって忍耐しつつ死にましたが、〈それゆえ〉神は主イエスを復活させました(ピリピ2:9)。それと同じように、キリストをこの世で証しする者は、備えられた迫害や苦難を受けとめ、救い出されることでしょう。迫害や苦難で命を失うこともありますが、天の御国で、主が抱きしめてくださいます。
 そんなパウロの伝道者人生でした。しかし、この愛弟子も、これまで同じように努めてきたことをパウロは認めているのです。それでは、これからはどうでしょうか。彼もキリストの信仰にとどまり、伝道者として十分に務めを果たすことができるでしょうか(4:5)。先ほど話した、あのデマスのような、背教の落伍者にならないでしょうか。パウロの心配と関心も、そこに実はありました。
 
(テモテは信仰に留まれ)
 ですから私たちの信仰には、苦難や迫害が付き物です。そして、ある人たちはその苦難や迫害のゆえに信仰から離れ、別の人たちはよく耐えて信仰を貫きます。どこが分かれ目となるのでしょうか。今日の箇所でパウロはこう言います。3:13-14a〈悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい〉。
 そして〈学んで確信したところにとどまって〉いるためには、実は霊的な助けが必要であったのです。エペソ教会の監督といえば聞こえはいいですが、テモテもまた、相次ぐ偽教師の活動に心を痛め(胃も痛め)ていたのかもしれません。パウロは、この手紙の最初にこう言っています。1:6〈そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください〉。テモテにもまた霊的刷新revivalが必要だったに違いありません。
 その上で、ここでもパウロは勧めているのです。1:8〈ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください〉。ここでもキリストへの信仰が単純な御利益でなく、ひとつの献身であり覚悟でもあることがわかります。
 パウロがこの手紙を書いたのは、偽教師との戦いに疲れ臆病になっているテモテを励ますためでした。偽の教えに負けずに、正しい信仰を繋いでもらうためでもありました(Ⅱテモテ2:2)。またテモテに、パウロのいるローマにマルコと来てもらって自分と交わりをするため、それから4:12にあるように外套や書物を届けてもらうためでした。
 しかし何より、パウロはテモテに思い起こしてもらいたかったのです。人が正しい信仰に留まり続けるためには、思い起こすことが大事です。3:14-15〈けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、3:15 また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます〉。
 神のことばは〈だれから学んだか〉と書いてあるように人をとおして学ぶものです。テモテは、もちろんパウロからも学びました(1:13、2:2)が、お母さんのユニケと祖母のロイスから学んでいました(1:5)。聖書は、聖霊によって記された書物です。なので、聖霊に導かれた人から教わる必要があります。
 テモテの母と祖母はユダヤ人でクリスチャンでしたが、父親はギリシア人で、クリスチャンでなかったかもしれません。今風にいうとカタクリです。しかしパウロは、どうしても自分の伝道チームの一員となって福音宣教のために労してもらいたくて、テモテにユダヤ人対応のため割礼も受けてもらうほどでした(使徒16:1-3)。
 私たちの教会も属しています連合のなかの東京地区連合委員会。昨年の今ごろから私も副委員長になったので奉仕や責任が増しております。ただそのなかで各教会から地区連合委員として出ている兄姉との交わりも深くなって教えられることも多く恵まれます。
 そのなかでひとりのたぶん30代の若い兄弟がいま地区連合の責任を担っていますが、若いのにほんとうに良い兄弟だと感心しております。先日、どうして彼はこんなに良い兄弟なのか彼の教会の牧師に尋ねました。すると(たぶんご両親もそうなのでしょうが)彼の祖母がほんとうに熱心な良い姉妹だった。その感化(その影響)だと教えてくれました。現代にも〈祖母ロイス〉(1:5)のような方はいるのだなと感心しました。
 また信仰者は、人による感化を受けます。しかし同時に、聖書のことばをとおして、主イエスをキリストとして覚え、信仰を新たにし、救いを確信するのだと思います。テモテも、母や祖母から人間的な教訓を学んだというより、聖書からキリストとその救いを学んだのでした。
 3:16-17には〈聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。3:17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです〉とも書いてあります。聖書は人を整えます。
 しかし神のことば(キリストの福音による救い)は人の感化によって学びます。聖書が霊的な書物だから、聖書は、教会の礼拝や交わりで学ばれるべきです。
 聖書は、礼拝の説教などで聞かれることがまずありますが、書物としての聖書をご自分で通読したり(とにかく開いて読んでみること)、学んだり、暗唱聖句をしたり、黙想して反芻したりすることも大事です。そして聖書から語られたことを生活や行いや態度にトレースすることも大事です。
 今日は礼拝のなかで聖餐式がありますが、これもまた聖書をとおしてキリストの十字架の贖い(救い)を思い起こすことで、聖書のことばが開かれなければパンも杯も空しいかもしれません。聖書は私たちに信仰による救いを与えますし、救われた者が福音を伝える神の人として整えられるためになくてはならない書物です。
 一言祈りましょう。「愛する主よ。私たちは聖書をとおして神のことばを、それも他の信仰者をとおして生きたことばとして学びます。教会の礼拝と交わりを祝してくださって、いつも聖書のことばがキリストの福音として聖霊によって生き生きと立ち上がりますように。神の愛の招きとして響きますように。聖書を学ぶことで、私たちをますます神を愛する人生に導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。


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