見出し画像

2024年5月12日礼拝説教「主を祝福せよ。主がシオンから祝福する」(詩篇134:1~3)

聖書箇所  
詩篇134:1~3
都上りの歌。
134:1 さあ【主】をほめたたえよ。【主】のすべてのしもべたち夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ。
134:2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ【主】をほめたたえよ。
134:3 天地を造られた【主】がシオンからあなたを祝福されるように。

参考聖句
Ⅰ歴代誌 23:28-32
23:28 彼らの役目は、【主】の宮に仕えるアロンの子らを、庭、脇部屋、すべての聖なるものに関わるきよめ、また、神の宮での奉仕のわざをもって助けることである。
23:29 また、彼らは、並べ供えるパン、穀物のささげ物の小麦粉、種なしの薄焼きパン、平鍋、混ぜ合わせたもの、また各種の量や大きさを計ること、
23:30 朝ごとに、立って【主】をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること、
23:31 安息日、新月の祭り、および例祭ごとに、【主】に献げられるすべての全焼のささげ物が、【主】の前に絶えず、定められた数で献げられることについても責任を負う。
23:32 彼らは、【主】の宮の奉仕に関して、会見の天幕の任務、聖所の任務、同族アロンの子らの任務に当たった。

参考聖句
詩篇 133:1-2
133:1 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。  
133:2 それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

------------------------------------------------------  
説教ノート 
序 10分の聖書タイム
① 神と人との祝福の遣り取り
② 切れ目なく主を賛美する
③ 主からの祝福を語り交わす

主を祝福せよ。主がシオンから祝福する
詩篇134:1-3
 東京都足立区に私たちと同じ連合の東京中央バプテスト教会があります。そこの役員のひとりで、小川政弘兄という方がおられます。小川さんは現在80歳ぐらいの年齢ですが、英語にもデジタルにも強い熱心な信仰者で、毎日のようにSNSのfacebookに投稿し、信仰を強めるようなsourceの提供をされています。
 恥ずかしい話ですが、自分はどんなふうに個人礼拝を持ったらいいのかと苦しむタイプです。最近、個人的に神と交わる時間が減っていると感じました。教会や地区連合や連合の仕事はしているのですが、朝、損得抜きで聖書のことばに触れてお祈りをする時間がなくなっている。devotionとかquiet timeと呼ばれる大切な時間と教わってきました。
 先週、たまたま小川さんが投稿したfacebookの記事が目に入りました。私たち家族がミネソタ時代に通っていた教会の牧師でもあった、ジョン・パイパー牧師の最近のことばが紹介されていました。
 Satan devotes 168 hours a week trying to deceive you. Do you think you can maintain a renewed mind with a ten-minute glance at God’s book once a day? – John Piper
 日本語訳も付けられていて、こう書いてありました。「サタンは、あなたを欺くために、一週168時間全てをつぎ込んでいる。あなたは一日に1度、10分間、神のみ言葉にさらっと目を通しただけで、新たにされた心を維持できると考えているのだろうか?」。
 168時間というのは24時間×7日で、一週間のすべての時間です。一週間の間、休むことなく、サタンは人を騙して堕落させる努力をしている。サタンのそんな攻撃に1日10分、聖書のことばを眺めただけで対抗しうるか考えているのか。キリストを信じて新しく(聖く)された心を保てると思っているのか、というチャレンジです。
 よく読むとパイパー先生は第一に聖書の読み方を問題にしているのですが、しかし同時に「1日10分では足りない」と言いたそうでもあります。先週、私が小川さんのSNSからこのことばを読んだとき、平たい私は読み違えました。「そうか、1日10分聖書を静まって読むと、サタンの攻撃にやられないですむんだ」。
 明らかに誤読(読み間違い)ですが、それで、私、四日前から「朝の10分聖書」を始めました。スマホのタイマーで10分にセットして、本の聖書を開いて、スマホアプリの「聞くドラマ聖書」からプロの方による聖書朗読を聴きます。タイマーで10分を測るのは時間を一定にしたいからです。アプリの朗読を聴くのは、急ぎすぎず、同時に遅すぎないで、読み進めたいからです。
 同じことを続けてすることは、たとえ相手が聖書であっても、マンネリになる可能性があります。しかし毎日・毎週、私たちがキリストの恵みのなかで生きようと思うと、神のことばである聖書から、神との時間を持とうとする必要があります。
 今日、私がとくにお話ししたいのは、神に礼拝したり祈ったりする特別な時間と、それ以外も含めたすべての時間との関係です。それは、神への礼拝を終えた人が家路につくなかで、別のかたちでの(ある意味ほんとうの)礼拝が始まっていることと、礼拝共同体を支える奉仕者の存在を考えるということです。
 一言祈りましょう。「イエス・キリストにあって終りの時代に語られた神(ヘブル1:2)、あなたの救いの御心を今日もお語りください。礼拝でとりつぐ牧師の説き明かしが、あなたの御心に適う者でありますように。説教を通してあなたのことばである聖書を学ぶ私たちが、あなたの救いの愛を今ひとたび確信し、聖霊に導かれたイエス・キリストの生き証人として、この世界を歩ませてください。今週も前途多難かもしれません。しかし十字架で死なれ、三日目によみがえったイエス・キリストが、すでに世(と悪魔)に勝利しておられます。そのことのゆえに神であるあなたをたたえ、勇敢であることができますように。私たちひとりひとりの人生を導いてくださる救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
 
(神と人との祝福の遣り取り)
 ついに私たちは都上りの歌の最後の詩に辿り着きました。3節のみから成る、短いこの詩篇をもう一度読みたいと思います。
 134:1-3〈さあ【主】をほめたたえよ。【主】のすべてのしもべたち夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ。134:2 聖所に向かってあなたがたの手を上げ【主】をほめたたえよ。134:3 天地を造られた【主】がシオンからあなたを祝福されるように〉。
 この詩篇134篇。いま発音はヤハウェであろうとされ、新改訳聖書では隅付き括弧で「主」の字を囲んで表わす、神の名前。この神のお名前〈【主】〉がわずか3節に5回も出てきます。
 また神の住まいを表わす〈【主】の家〉〈聖所〉〈シオン〉が1節ずつに現れます。〈【主】の家〉という言い方は122:1の〈「さあ【主】の家に行こう。」〉ですでに現れており、〈シオン〉という言い方は128:5の〈【主】がシオンからあなたを祝福されるように〉で現れておりました。
 また神を〈天地を造られた〉お方と表わすのは、121:2と124:8にも出てきます。
 また1節と2節にある〈【主】をほめたたえよ〉は、124:6の〈ほむべきかな【主】〉と響き合います。
 しかし何と言ってもことばの使い方で印象的なのは、1節と2節の〈【主】をほめたたえよ〉の〈ほめたたえる〉という動詞と、3節の〈【主】がシオンからあなたを祝福されるように〉の〈祝福する〉という動詞は、実は同じ動詞であることです。
 すなわち1-2節では、人が神を賛美する勧めですが、言い換えれば、それは人が神を「祝福する」ということなのです。〈さあ【主】を祝福せよ。【主】のすべてのしもべたち夜ごとに【主】の家で仕える者たちよ。聖所に向かってあなたがたの手を上げ【主】を祝福せよ〉と直訳なのですが訳すこともできるのです(新改訳2017脚注参照)。
 3節では〈天地を造られた【主】がシオンからあなたを祝福されるように〉とあるように、神から人への祝福が表わされています。日本語では、人が神を「祝福する」という表現は馴染まないのですが、英語訳聖書ではGod bless youのblessが3節だけでなく1節にも2節にも使われていて、同じ動詞であることがすぐにわかります。
 いつもより長く、言葉遣いの説明をしました。この詩篇が、都上りの歌の締めにふさわしく、神と人との交わり、それも賛美や祝福の遣り取りになっていることを知っていただきたいのです。
 
(切れ目なく主を賛美する)
次に内容について入っていきましょう。旅をしてエルサレムの神殿に入って、主なる神を礼拝し、祈った信仰者は、今や故郷に戻ろうとしています。それは夕暮れの出発だったのでしょうか。それともエルサレムのどこかに宿泊して、夜の散歩と洒落込んだのでしょうか。何にしても、昼の時間は終り、夜の神殿を見ています。
 昼間、あたりまえのように神殿を訪れ、決められたとおりに礼拝をし、主なる神に祈りをささげたけれど、その神殿の管理や清掃や翌日の準備をする働き手たちをこの詩人は見たのです。〈【主】のすべてのしもべたち〉とか〈夜ごとに【主】の家で仕える者たち〉と書いてあるとおりです。
 イスラエルの十二部族のひとつであるレビ部族は、モーセやアロンを輩出しましたが、主の契約の箱を運ぶなど礼拝の働きを専門に担う一族となりました(申命記10:8)。ダビデの信仰がソロモンの受け継がれてエルサレムに神殿が建設されると、レビ人の仕事は契約の箱を運ぶのではなく神殿が建つエルサレムに住んで、アロンの子孫である同族の祭司や、神殿の具体的な人目に触れない働きに奉仕する者となりました。
 少し長いですが、Ⅰ歴代誌23:28-32 を引用します。〈彼ら〉というのはレビ部族の男たち、レビ人とも呼ばれる人たち、新約聖書にも登場する人たちです。Ⅰ歴代誌23:28-32〈彼らの役目は、【主】の宮に仕えるアロンの子らを、庭、脇部屋、すべての聖なるものに関わるきよめ、また、神の宮での奉仕のわざをもって助けることである。23:29 また、彼らは、並べ供えるパン、穀物のささげ物の小麦粉、種なしの薄焼きパン、平鍋、混ぜ合わせたもの、また各種の量や大きさを計ること、23:30 朝ごとに、立って【主】をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にすること、23:31 安息日、新月の祭り、および例祭ごとに、【主】に献げられるすべての全焼のささげ物が、【主】の前に絶えず、定められた数で献げられることについても責任を負う。23:32 彼らは、【主】の宮の奉仕に関して、会見の天幕の任務、聖所の任務、同族アロンの子らの任務に当たった〉。
 レビ人、彼らは祭司の助手であり、神殿の礼拝で必要なものを整える下働きをしていました。今日の教会でも、教職者だけが教会の実際を担っているわけではないことがすぐわかると思います。
 そしてレビ人は下働きだけでなく30節にあるように〈朝ごとに、立って【主】をほめたたえ、賛美し、夕べにも同様にする〉務めがありました。それは専門の歌い手(歌手)だったかもしれません。Ⅰ歴代誌9:33に〈これらは歌い手で、レビ人の一族のかしらであり、各部屋にいて、ほかの務めを免れていた。昼となく夜となく彼らはその務めに携わったからである〉と書いてあります。
 何にしても、神殿で働くことを生涯の務めとする一団が旧約聖書の時代にいたのです。祭司たちもそうですが、レビ人も含めて、ただ建物があるだけでなく、その建物を中心に人々の礼拝をサポートする働きがありました。〈夜ごとに〉とあるのは、神殿に人々が賑わう昼だけでなく、ひっそりとした夜も、ということでしょう。つまり朝も昼も夕も夜も、もちろん交代制ですが、奉仕者の働きは切れ目がなかったということです。
 信仰者が礼拝のために上京した(それこそ都上りの)特別な日や時間だけでなく、すべての日や時間のために、神を賛美し、神に祈る働きが続けられていることに、信仰者は感動したのです。それで「がんばってください」と言わんばかりに〈さあ【主】をほめたたえよ〉とレビ人の歌い手に向かってエールを送ったのではありませんか。〈聖所に向かってあなたがたの手を上げ【主】を祝福せよ〉と、詩人はひとりの礼拝者に過ぎませんが、神殿の奉仕者に向かっても〈祝福せよ〉と祝福したのです。
 このようにこの詩篇134篇には、神と人との祝福の遣り取りがあるだけでなく、神殿に仕える奉仕者と、その奉仕の恵みに与った(他の)信仰者との交流があるのです。
 
(主からの祝福を語り交わす幸い)
 神殿で賛美をしていたレビ人の歌い手は、夜であるにもかかわらず〈さあ【主】をほめたたえよ〉〈聖所に向かってあなたがたの手を上げ【主】をほめたたえよ〉と声援を受けたのです。思いもかけないことだったでしょう。そして嬉しかったことでしょう。
 レビ人は、信仰者に声をかけます。主が天から信仰者を祝福しますが、レビ人が礼拝をささげ家路につこうとする信仰者に祝福のことばをかけたいと願ったのも事実です。3節は信仰者がまさに神殿の夜に聴いたことばかもしれません。〈天地を造られた【主】がシオンからあなたを祝福されるように〉。主が祝福を。主からの祝福がありますように。皆さんに向けて毎週発する礼拝の祝祷のことば(民数記6:24-26)が私には重なります。
 信仰者は、主を礼拝するためにエルサレムまで旅をしました。皆さんも、徒歩や交通機関や自転車や自家用車で、このところに来られました。また、現場の空気感と少し違うと感じつつも礼拝中継や動画視聴で集っている方もおられるでしょう。
 イエス・キリストの父である、主なる神は〈シオンから〉祝福してくださる方です。神は、世界がキリストの福音によって救われるために、キリストの教会をつくられました。それは先週学んだ詩篇133篇の〈兄弟たちが一つになってともに生きること〉。礼拝と人生の共同体です。そしてそれは〈頭に注がれた貴い油のよう〉です。
 油は頭から髭を伝って衣の裾にまで流れ滴り、広がります。しかし私は先週気がつきました。頭に注がれた油だけでなく、油の香りも広がるのです。主の純粋で高価な祝福は〈シオンから〉。すなわち教会が福音を伝えて信者を獲得すると共に、油が香りを放つように世界に良い影響を与えるのです。私たちは今週も世界のために祈りましょう。
 そして主は〈天地を造られた〉方です。これは神が天地の造り主designerであり、またそればかりでなく天地を治める王であることを意味します。神は宇宙全体(天地)とそこにある万物(すべて)の支配者です。ですから私たちは教会を通して主の祝福を帯びて、主が導いてくださる場所へ行くのです。
 それは荒野や砂漠のような乾いた土地かもしれません。大水が出たり、雷が鳴ったりする怖い場所かもしれません。しかし〈天地を造られた【主】〉があなたを祝福してくださいます。再び礼拝の時間が来ることも信じて、また家庭や職場や学校でもdevotionをする時間があることも信じて、終りの日にはキリストが治めてくださるので、私たちは主の業に励むのです。賛美して主を祝福し、主の愛で祝福され、また互いに祝福のことばを交わします。そして私たちは週末と終末に顔を向け、神と共に生きていきましょう。
 「主よ。私たちの旅路を祝福してください。これまでも守ってくださったように、いえ、福音のことばを聴いた私たちは、ますます高尚で勇敢な人生に導いてください。二つの戦争が正しく終結し、今の戦場が安全で平和な癒しの場所に変わることを私たちは今週も願います。また病む人のためにも祈ります。主の御心が天で行われるように地でも行なわれますように。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?