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2024年7月7日礼拝説教「祝福の道を説くマラキ~十分の一を正確に理解する~」(マラキ3:6~12)

(本日の中心聖句)マラキ書3:6~12
3:6 【主】であるわたしは変わることがない。そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない。
3:7 あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。
3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。
3:9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。
3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。
3:11 わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は言われる──
3:12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の【主】は言われる。

(参照聖句)マタイ5:8
心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

(参照聖句)エゼキエル18:32
わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ。

(参照聖句)マタイ 23:23 &ルカ11:42
マタイ 23:23  わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。 ルカ 11:42 だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。

(参照聖句)ルカ3:7~14
3:7 ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。
3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。
3:9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木はすべて切り倒されて、火に投げ込まれます。」
3:10 群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
3:11 ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」
3:12 取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすればよいのでしょうか。」
3:13 ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」
3:14 兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

(参照聖句)使徒 2:38
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

(参照聖句)Ⅱコリント9:7
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

(参照聖句)Ⅱコリント8:9
あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。


説教アウトライン      
序 マタイ5:8〈神を見る〉
① 悔い改めに招く神
② マラキの時代の急所
③ 人生を信仰の実践として
④ まとめに変えて~与える生き方~


祝福の道を説くマラキ~十分の一を正確に理解する~
マラキ3:6-12
 7月に入りました。先週は献堂記念感謝礼拝ということで藤原導夫先生に使徒1:8からお話をいただきました。今週から「神を愛する人生」のシリーズを再開したいと思います。このシリーズは、私たちがますます「神を愛する人生」を深めていこうという趣旨で、聖書の人物、なるべく旧約聖書の人物をとくに取りあげながら、教会生活の折句「狭いけど誉れ」に沿って学んでおります。
 本日は「狭いけど誉れ」の4番目で「け」の献金です。ある意味、もっともデリケートな話題です。それで、まず献金とは直接関係ない聖句から始めようと思います。
 その聖句は、イエス・キリストが言われたことばです。暗唱もできるようにしていただきたい。私がお示ししたいのは、マタイ5:8です。幸いな人について主が説かれた、あの箇所のひとつ。ご存じの方も多いかもしれません。〈心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです〉ということばです。
 ここでは幸いの理由として〈神を見る〉ということが言われています。本質的に神は霊なので(ヨハネ4:24)、肉眼で見ることはできないはず。しかし肉眼でとらえることができなくても、私たちは〈神を見る〉ことができる。神がおられ、神が私たちを愛し、治め、導いてくださることが分るのです。神に対するそんな現実味realityが〈神を見る〉ということに違いありません。
 そして《心のきよい者は神を見る》と言われているのですから、次のことも言えるはずです。神の現実味を私たちが感じられないとすれば、それは私たちの心がきよくないからだ。神はおられます。しかし多くの人は聖霊を受けておらず、神の現実味がありません。心の問題、とくにきよさの問題に解決がないので、人は神を見損ねたままです。
 「心のきよさ」が条件となりますが、〈神を見る〉ような神の現実味は私たちが信仰者として歩む上で大切な要素です。そこは抑えた上で、神の現実味に取り組んだ人物として、旧約聖書に出てくる最後の預言者マラキを取りあげたいのです。
 マラキという預言者の名前。「私の使者my messenger」という意味です。「私の使者」を「私の御使い(天使)」と受けとれば、神秘的です。この人はその預言のなかで〈十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ〉(3:10)と預言しています。マラキ3:10〈十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか〉。
 古い契約(すなわち旧約)ではなく新しい契約(すなわち新約)の時代に生きる私たちも、献金について考えるときに、必ずと言っていいほど参照するこの3:10の聖句を残したのが、マラキです。マラキを架空の人物と考える説もありますが、マラキをその時代に実在した神の預言者と考えて、マラキ書とくに3:6-12を読んでいきます。
 一言祈りましょう。「神様。私たちを導いてください。〈神を見る〉と言えるほどに、あなたを知ったクリスチャンが、その財や持ち物においてどのように証を立てるべきか、本日は共に礼拝のなかで学ぼうと思います。自分ではなく、神に望みを置いて、私たちがキリストの御霊によって、これからも歩み得ますよう、みことばによって助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。

(悔い改めに招く神)
 マラキが神のことばを伝えた時代は紀元前5世紀の半ば、460年ごろといわれています。70年の長さであったバビロン捕囚が終わり、エルサレムを中心としたユダヤの国に人々が戻り、ハガイやゼカリヤの預言に励まされて(後に第二神殿と呼ばれますが)礼拝の拠点である神殿を再建いたします。
 しかし、その信仰は、先祖たちがしていた礼拝や生活を表面的になぞるようなもので、もう少し後のエズラやネヘミヤの改革を待たねばならない状態でした。ユダヤの国から異教の国バビロンに連れていかれて、70年も生活した民族の後遺症とでもいうのでしょうか。まことの神への信仰が、ねじ曲げられ、形ばかりのものになっていました。
 そのように私たち人間は、時代にも状況にも大きく左右される生き物です。しかし有り難いことに、マラキをとおして、主なる神はこう言われたのです。〈【主】であるわたしは変わることがない〉。変わりやすい人間、私たち。しかし、神は変わらない。不変です。しかし神の、とくに何が変わらないというのか。そこは抑えなければと思います。
 3:6後半〈そのため、ヤコブの子らよ、あなたがたは絶え果てることはない〉。神は、神の民イスラエルを滅ぼさないと言っておられるのです。しかし残念ながら、人はどんなに時代や状況がよくても、根本的な罪深さは変わりません。3:7前半〈あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった〉。
 神は不正を許さない、正義の神。汚れを憎む、聖なる方。しかし〈怒るのに遅く、恵み豊かであり、咎と背きを赦す〉方でもあります(民数14:8)。ですから時代や状況において人がどんなに悪に染まろうとも、主は、救いにおいて変わりません。3:7〈わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる──〉。
 神が変わらないとは、神の知恵や力、正義や聖さもそうですが、マラキが言おうとしているのは選民を救おうとする愛です。罪があっても、赦して、再び聖く歩ませたいとする神の招きです。神の招きは、正しく歩みやすい時代にも、困難な時代にも、変わりません。アダムの子である人類に、異邦人である私たちに対しても〈わたしは、だれが死ぬのも喜ばない──【神】である主のことば──。だから立ち返って、生きよ〉(エゼキエル18:32)と、主は語っておられます。

(マラキの時代の急所)
 そのように、神の愛と救いの招きは、どんな時代でも変わりませんでした。しかし神のことばに対する反応の仕方は、時代や状況によって若干違うことがありました。かつての時代、神に帰れ(わたしに帰れ)と言われれば、自ずから決断を迫られたものでした。しかしバビロン捕囚の70年(異教的な環境)で育った新世代は、悔い改めがわからなかったのです。悔い改めとは何か。何をすべきか。どういう生活を目指すのか。
 預言者マラキの時代の民は、まことの悔い改めを知りませんでした。きっと手本がなかったからです。バビロン捕囚は、この時代の人たちから、中身のある信仰継承を失わせました。これは悲劇です。
 7節後半〈わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の【主】は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と〉。「悔い改めよ」と説かれながら、悔い改めの道筋が見えないのです。
 今日私たちは、マラキ3:6-12を学んでいますが、マラキが預言をした時代の特徴はいままで述べてきたことです。マラキの時代は、ハガイやゼカリヤが活躍したころと、エズラやネヘミヤが活躍したころの中間の時期でした。ユダヤの地での信仰生活は再開したものの、中身が未だ伴っていない。異教的なことわざでいえば「仏造って魂入れず」のような状態でした。どうすればまことの神信仰に魂が入るのか。
 3:8a〈人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と〉。マラキは、民が驚くようなことを言いました。神がおられる天に昇って、だれかが何かをくすねたというのでしょうか。
 それは神殿にささげる献金や献品のことでした。〈十分の一と奉納物においてだ〉と、マラキは告げました。たしかにイエス・キリストも〈十分の一もおろそかにしてはいけない〉(マタイ23:23、ルカ11:42)と言われました。しかしキリストは〈正義とあわれみと誠実〉〈正義と神への愛〉(マタイ&ルカ)のほうがはるかに重要だと言われました。
 どうしてマラキは〈十分の一と奉納物〉にこだわったのでしょうか。神からのことばとして〈あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる〉(マラキ3:9)とまでマラキは言ったのです。 言うまでもなく、この時代の霊的急所がこの〈十分の一〉にあったからです。たとえばこのころ、礼拝をするために、家畜を神殿に連れてきますが、値打ちの有るほうでなく値打ちの無いほうの家畜を献げようとする、礼拝者のずるさがありました。犠牲を受けとる祭司も、公の働きにおいては依怙贔屓をし、私生活で不倫を働いていました。

(人生を信仰の実践として)
 しかしマラキはユダの人たちを弾劾しただけではありませんでした。否、マラキをとおして明かされた神の御心は、というべきでしょう。3:10〈十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。─万軍の【主】は言われる─わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか〉。
 この時代の選民は、悔い改めがわかりませんでした。悔い改めとは、罪がわかって、罪を認めるだけではありません。悔い改めは魂の変化ですが、心とことばに表れるだけでなく、行いと生活も変化するものなのです。
 それは新約聖書の時代になっても同じです。たとえばバプテスマのヨハネは〈悔い改めにふさわしい実を結びなさい〉と言いました。そして具体的な勧めもあって〈下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい〉と群衆に教えました。また取税人たちには〈決められた以上には、何も取り立ててはいけません〉。そして兵士たちも〈だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい〉と勧めました(ルカ3:7-14)。
 初代教会も同じです。ペテロは、ペンテコステの日に、自分の説教を聴いて心を刺された人々にこう勧めました。使徒2:38〈それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます〉。
 私たちは信仰によって救われるのであって、行いによるのではありません。しかし、都度都度に〈悔い改めにふさわしい実〉の示されることがあるのです。マラキの時代のユダの人々には〈十分の一〉のささげものの徹底でした。バビロン捕囚から帰って祖国の信仰を再建する、その必要が高かったからかもしれません。
 信仰とは、観念の遊戯ではありません。毎日の生活に根ざし、地上の人生を左右するものです。ですからマラキはこう勧めました。3:11-12〈わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の【主】は言われる──3:12 すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。──万軍の【主】は言われる〉。
 人生全体が、信仰の実践の場です。信仰の正しさを、主ご自身が私たちの人生をとおして証明してくださるのです。

(まとめに変えて~与える生き方~)
 たしかに献金はデリケートな話題です。しかし私たちが悔いのない人生を送りたいと考えるなら、経済の問題は避けて通れません。
 イエス・キリストの十字架によって鮮やかにされた神の恵みによる救いは、献金に限らず、新しい原則を私たちの生き方にもたらしました。ただ律法を(神の掟を)守るのではなく、喜んで守るということです。本人の気持ちを、誰でもない、神ご自身が尊重してくださるということです。そして私たちも神ご自身の御心を尊重します。
 新約聖書は献金についてこう語っています。Ⅱコリント9:7〈一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです〉。
 主が受けるよりも与えるほうが幸いであると言われたとおり(使徒20:35)、悔いのない人生の秘訣は、私たちが神の恵みに感謝して与える人になることです。しかし、それもおひとりおひとりが決めることです。そして主の守りや支えを信じて、喜んでしましょう。主は私たちの人生全体を見ていてくださいます(ルカ21:1-4参照)。
 そして主ご自身がそのような方でした。Ⅱコリント8:9〈あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです〉。
 主は私たちを富む者とし、富む者らしく与える人生を歩むよう私たちを励ましておいでです。今日の聖餐式においても〈キリストの貧しさ〉を覚えましょう。私たちは、だれよりも十字架で死んだ主イエスを愛し慕って、この場に集められているのです。
 一言祈ります。「愛する主なる神。私たちはたくさんのものや事柄に執着しやすいのです。しかしキリストの真心からの犠牲を覚えて感謝します。神ご自身が私の人生の王であり主でありownerであることを覚えて喜びます。富に目がくらんで、神が見えなくなることがありませんように、私の人生をみことばの光が照らしてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。


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