2024年6月23日礼拝説教「エリヤは私たちと同じ人間~義人の祈りの力~神を愛する人生③」(ヤコブ5:16~18)
聖書箇所 ヤコブ5:16~18
5:16 ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。
5:17 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。
5:18 それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
(参考聖句)Ⅰ列王記
16:30 オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも【主】の目に悪であることを行った。
16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。
16:32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。
16:33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、【主】の怒りを引き起こすようなことを行った。
(参考聖句)Ⅰ列王記
17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」
18:1 かなりの日数を経て、三年目に、次のような【主】のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」
18:16 オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。
18:17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」
18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは【主】の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。
18:19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」
18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:36 ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。
18:37 私に答えてください。【主】よ、私に答えてください。そうすればこの民は、【主】よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」
18:38 すると、【主】の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした。
18:42b エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた。
18:43 彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海の方をよく見なさい。」若い者は上って、見たが、「何もありません」と言った。するとエリヤは「もう一度、上りなさい」と言って、それを七回繰り返した。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号
説教ノート
序
① エリヤとその時代
② エリヤと旱魃
③ エリヤの帰国
④ 祈りの苦労
エリヤは私たちと同じ人間~義人の祈りの力~
ヤコブ5:16-18
私たちが礼拝で用いている賛美歌集は『新聖歌』です。よい賛美歌集のひとつだと思いますが、残念だなと思うこともあります。説教のあとの応答の賛美歌を私が決めるのですが、この歌にしたいと考えても載っていないことが、時々あります。すべてを網羅している賛美歌集はないし、新しい歌も入ってくるので、仕方ないのです。
こんな歌詞の入っている賛美歌があります。「火を呼び降し 雨を降らしし/エリヤも我と 同じ人なり/昔も今も 変わりなき主は/我が祈りにも 必ずこたえん」(聖歌253「めぐみあふるる」4節)。今日のお話はエリヤ(旧約聖書の預言者の代表選手のような人物)です。そして「狭いけど誉れ」でいうと《祈り》について学びます。
それこそ「かつて祈りの人として誰もが認めたエリヤも、自分と同じ人であった。昔、エリヤの信じた神は、今も変わらない方なので、私の祈りにも神は答えてくださる」と私は皆さんと歌いたかったのです。しかし残念ですが『新聖歌』には所収されていなかったので、別の歌を選びました。
ただ、そんなふうに賛美歌のことで残念がっていると「エリヤも我と同じ人なり」という歌詞は、聖書のことばが歌詞になっていることに気がつきました。それが先ほど読みました新約聖書ヤコブの手紙5:17です。〈エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした〉。
聖書に書かれている言い回しやことばを歌詞に取り込んで賛美歌が書かれる。そのことは、しばしばあるので不思議はありません。しかし、それにしてもと思いました。
〈エリヤは私たちと同じ人間でした〉。そのことが強調されるのは、どうしてでしょうか。言うまでもなく、エリヤの祈りとその結果が、自分や他と比べようがないくらい、大きなものだからです。「狭いけど誉れ」。本日は、エリヤの祈りから、私たちの祈りを比べてみましょう。さらに、そこから何が見えてくるでしょうか。
一言祈りましょう。「天の愛する父なる神。私たちは罪多き者ですが、今日もキリストのゆえにあなたの御前に出ております。感謝します。神のことばをとりつぐ説教者をあなたのあわれみのゆえに聖としてくださり、あなたのご栄光が現れますように。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
(エリヤとその時代)
旧約聖書で、預言者エリヤが登場するのは、Ⅰ列王記17章からⅡ列王記2章あたりまでです。列王記という書名が示すように、王たちの記録です。ダビデ王の晩年と死から始まって、ソロモン王の即位と繁栄。その後、王国は南北に分裂しますが、どちらかというと北イスラエル王国のほうが南ユダ王国より堕落が著しいところがありました。なかでもエリヤが登場するきっかけとなったのは、アハブ王の悪でした。
アハブは、北イスラエルのほうの王でした。南ユダ王国はダビデの子孫の血統で王が立てられ続きますが、北イスラエルはヤロブアム1世以来ダビデやソロモンの子孫ではない王が立っています。しかも反乱によって王統が絶えるということがしばしば起こります。血筋のことをいえば、アハブの父のオムリは王族ではなく軍の長でしたが、先の王を殺して王となったジムリを倒して、北イスラエルの王となったのでした。
北イスラエルの王は、最初のヤロブアム1世のときに主なる神を金の子牛にかたどって礼拝するという悪(偶像礼拝の罪)を始めましたが、それを続けてもおりました。王統が変わっても、北イスラエルはダンとベテルの金の子牛で民を迷わせ続けました。
しかし、恐ろしいのはオムリの息子のアハブでした。ヤロブアム1世以来の北王国の王たちの罪は、モーセを用いてイスラエルをエジプトから導き出した主なる神を、金の子牛に置き換えたことです。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神への信仰そのものを否定したわけではありません。
ところが、アハブはそれまでの王たちがしなかった罪を犯したのです。Ⅰ列王記16:30-33〈オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも【主】の目に悪であることを行った。16:31 彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。16:32 さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。16:33 アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、【主】の怒りを引き起こすようなことを行った〉。
つまりアハブ王のしたことは、次のようなことです。おそらくアハブの父オムリからの流れであったでしょうが、北イスラエルはシドンの国と同盟を結ぼうと考えたのです。そのためにアハブは〈シドン人の王エテバアルの娘イゼベル〉と結婚する。結婚するために、エテバアルやイゼベルの拝むバアルの神を拝む。シドンの国でバアルを拝むだけではなく、イゼベルが嫁ぐ北王国の都であるサマリアにバアルの神殿や祭壇をつくる。関連して女神であるアシェラ像もつくる。これはあまりにも大きな逸脱(正統信仰からの逸脱)でした。そんな危険な北イスラエル王国の状況にエリヤは現れました。
(エリヤと旱魃)
Ⅰ列王記17:1〈ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、【主】は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」〉。
何の前触れもなく(少なくとも読者には)ティシュベ人エリヤが登場します。ただ登場するのではなく、神のことばの預言と共に、です。バアルもアシェラも五穀豊穣を願う農業神です。しかし農業も含めて人間のすべての営み、人間とそれを取り巻く世界の支配者は、イスラエルの神なのです。神は、それを北イスラエルに、とりわけアハブ王に分らせるため、分らせ悔い改めさせようと、旱魃が起こるのです。
エリヤは、神から言われてケリテ川の畔に身を隠します。ひとつは指名手配を逃れるためでしょう。しかし、それだけでなくアハブ王がよくよく反省し、悔い改めることがしやすいように、神はエリヤに身を隠させたのだとする説く方(舟喜信)もいます。
預言者の使命とは何か。神のことばを預かって、広めることです。では、もっとも的確なかたちで効果的にメッセージを伝えることは、語る自分を現すことか隠すことか。それもまたケースバイケースなのでしょう。このときのエリヤは身を隠すことでした。ケリテ川のカラスに養われたあと、川も干上がると、何とバアル信仰の本拠地のようなシドンのツァレファテで、ひとりのやもめに養われます(ルカ4:25-26参照)。
神からの使者として預言した預言者も、旱魃から来る飢饉の苦しみを共有します。主イエスもまた、罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたとされています(ヘブル4:15)。
(エリヤの帰国)
エリヤをとおして語られた神のことばは、旱魃による飢饉を招来しただけではありません。旱魃による飢饉を終らせるべく、神のことばは天から雨を降らせることもなさいます。Ⅰ列王記18:1〈かなりの日数を経て、三年目に、次のような【主】のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地の上に雨を降らせよう。」〉。
アハブは、このとき、宮廷長官オバデヤと手分けして、王国を巡察していました。神のことばを伝える預言者エリヤは、オバデヤを介して、アハブ王と対面します。
Ⅰ列王18:16-20〈オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会うためにやって来た。18:17 アハブがエリヤを見るやいなや、アハブは彼に言った。「おまえか、イスラエルにわざわいをもたらす者は。」18:18 エリヤは言った。「私はイスラエルにわざわいをもたらしてはいない。あなたとあなたの父の家こそ、そうだ。現に、あなたがたは【主】の命令を捨て、あなたはバアルの神々に従っている。18:19 今、人を遣わして、カルメル山の私のところに、全イスラエル、ならびにイゼベルの食卓に着く、四百五十人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者を集めなさい。」18:20 そこで、アハブはイスラエルのすべての人々に使者を遣わして、預言者たちをカルメル山に集めた〉。こうしてエリヤのエピソードのなかでもっとも有名なカルメル山での、バアルの預言者450人とエリヤひとりとの対決が始まります。切り裂かれた雄牛に天から火をもって答える神が、ほんとうに神だとする勝負です。エリヤが身を隠すのをやめ、北イスラエルに現れ、アハブ王と会うとは、こういうことしかなかったのです。
先攻となった450人のバアルの預言者たちは、朝から真昼までバアルの名を呼ぶだけでなく、バアルの祭壇の近くで踊り回りました。天から火が降ってこないので、バアルの預言者たちはさらに大きな声で叫び、慣わしにしたがい、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけることもやりました。しかしバアルは答えませんでした。
対してエリヤは、主の祭壇を築き直し、切り裂いた牛と薪に三度も水をかけることさえしました。そしてエリヤの祈りです。Ⅰ列王18:36-38〈ささげ物を献げるころになると、預言者エリヤは進み出て言った。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。18:37 私に答えてください。【主】よ、私に答えてください。そうすればこの民は、【主】よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。」18:38 すると、【主】の火が降り、全焼のささげ物と薪と石と土を焼き尽くし、溝の水もなめ尽くした〉。エリヤは対決に勝利し、民は主に立ち返り、バアルの預言者はエリヤによってキション川で殺されます。
(祈りの苦労)
エリヤは、祈る人です。間違いなく、そうです。しかし、どちらかと言えば、私たちとは性質の違う祈り手(祈る人)のように思えます。
けれども聖書はこう言っています。〈エリヤは私たちと同じ人間でした〉。
どうでしょうか。私たちは、こんなことも言うべきでしょうか。「パウロは私たちと同じ人間でした」。「カルバンは私たちと同じ人間でした」。「ジョン・ウェスレーは私たちと同じ人間でした」。「ビリー・グラハムは私たちと同じ人間でした」。「ジョン・パイパーは私たちと同じ人間でした」。また信仰を離れて、こんなことも言えるでしょうか。「ビル・ゲイツは私たちと同じ人間でした」。「大谷翔平は私たちと同じ人間でした」。「ナイチンゲールは私たちと同じ人間でした」。
Ⅰ列王記を読むとエリヤが他にも苦労していることが分ります。17章の終りでは、自分を匿ってくれたやもめの息子が重い病気で死んだとき、主に叫んで祈っています。また18章の終りは、エリヤはバアルの預言者たちに勝利したあと、雨が降りそうになるまで〈カルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた〉(18:43)のです。そして7度も天候の具合を気にして若い助手に尋ねています。
エリヤは、魔法使いのように神秘的な力を発揮しているわけではありません。神の御心を知らされて、従順に従い、なおかつ祈るときは神に懇願しています。いるかどうか分らないバアルに祈るのと違って、天地の主である神に祈るとは、そういうことです。
第一に、私たちは、エリヤのように生けるまことの神に祈ることができることを感謝しましょう。現代は相対主義の時代ですが、三位一体の神を信じた者が受ける魂のrealityと平安は他の追随を許さないと、私は思います。
第二に、私たちは、エリヤのように正しい人でいられるということです。ヤコブ5:16はこう言っています。〈ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります〉。正しい人とは、神の御心の要点を知らされていて、神の御心の実現のために生かされている人です。
そして正しい人(義人)とはどのように生まれるかというと、イエス・キリストの十字架によるのです。ですから正しい人とは、イエス・キリスト(の臨在)の場所にいる人です。互いに罪を言い表し、互いのために祈り合う、教会の交わりは、神との交わりを深める祈りの学校でもあります。
そして第三に、私たちは、エリヤのように回復のときを呼び出すことができるのです。北イスラエルを襲った旱魃は、アハブをはじめ国民が悔い改めるためでした。私たちは残念ながらアハブ王が悔い改めなかったこと、エリヤがカルメル山での対決に勝利するまで国民は日和っていたことを知っています。
にもかかわらず、旱魃によってはアハブも国民も悔い改めなかったけれど、神は別な方法で人々を悔い改めに導き、さらに国土を、旱魃からの脱却、飢饉からの救出に導こうとされました。ヤコブ5:18に〈それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました〉とあるとおりです。
このことから私たちは、良きことのために希望をもって祈ることの大切さを教えられます。今日の天気は雨模様かもしれませんが、止まない雨はありません。またエリヤは、大きなことや難しいことのために多く祈りましたが、私たちも早くウクライナとガザ地区の大きな戦争が早く止むように祈っています。
私たちも、イエス・キリストの名のゆえに、エリヤのように祈れるのです。いいえ、私たちは主の御名をいただいている以上、義人(正しい人)であり、神の御心を知る者であって、神のご計画のなかですでに祈りをささげている者であると弁えましょう。
一言祈ります。「愛する神。さらに言えばエリヤも燃え尽きたり疲れたりしました(Ⅰ列王記19章)。しかしそれもまた、あなたが次の時代を用意しておられるからでした。信仰も祈りも見通しも失いやすい者ですが、そんな私たちを愛して主イエスを送ってくださった救いに感謝します。どうか私たちが祈る時間やみことばを聴く機会を惜しむことがありませんように。また簡単に罪や悪や誘惑に屈しないで、祈り続ける者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。
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