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2024年8月11日 礼拝説教「ダニエルは礼拝を続けた~獅子の穴からの生還~神を愛する人生⑧」ダニエル6:1~28

聖書箇所 ダニエル6:1~28(+5:29~31)
5:29 そこでベルシャツァルは命じて、ダニエルに紫の衣を着せ、金の鎖を首にかけさせ、彼がこの国の第三の権力者であると布告させた。
5:30 その夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。
5:31 そして、メディア人ダレイオスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。
6:1 ダレイオスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。
6:2 彼はまた、彼らの上にダニエルを含む三人の大臣を置いた。これは、太守たちがこの三人に報告を行い、王が損害を被らないようにするためであった。
6:3 さて、このダニエルは、ほかの大臣や太守よりも際立って秀でていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからであった。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。
6:4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとしたが、何の口実も欠点も見つけられなかった。彼は忠実で、何の怠慢も欠点も見つからなかったのである。
6:5 そこでこの人たちは言った。「われわれはこのダニエルを訴えるための、いかなる口実も見つけられない。彼の神の律法のことで見つけるしかない。」
6:6 それでこの大臣と太守たちは、王のもとに押しかけて来て、こう言った。「ダレイオス王よ、永遠に生きられますように。
6:7 王よ。国中の大臣、長官、太守、顧問、総督はみな、王が一つの法令を制定し、断固たる禁令を出していただくことに同意しました。すなわち今から三十日間、王よ、いかなる神にでも人にでも、あなた以外に祈願をする者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれる、と。
6:8 王よ、今、その禁令を制定し、変更されることのないようにその文書に署名し、取り消しのできないメディアとペルシアの法律としてください。」
6:9 そこで、ダレイオス王はその禁令の文書に署名した。
6:10 ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた。
6:11 すると、この者たちが押しかけて来て、ダニエルが神に祈り求め、哀願しているのを見つけた。
6:12 そこで彼らは王の前に進み出て、王の禁令について言った。「王よ。王は今から三十日間、いかなる神にでも人にでも、あなた以外に祈願をする者は、だれでも獅子の穴に投げ込まれるという禁令に、署名されたのではありませんか。」王は答えた。「取り消しのできないメディアとペルシアの法律がそうであるように、そのことは確かである。」
6:13 そこで、彼らは王に告げた。「王よ。ユダからの捕虜の一人ダニエルは、あなたと、ご署名になった禁令を無視して、日に三度、自分勝手な祈願をしております。」
6:14 このことを聞いて王は非常に憂い、ダニエルを救おうと気遣った。そして彼を助け出そうと、日没まで手を尽くした。
6:15 そのとき、あの者たちが王のもとに押しかけて来て、王に言った。「王よ。王が制定したいかなる禁令や法令も、決して変更されることはないということが、メディアとペルシアの法律であることをご承知ください。」
6:16 それで王は命令を出し、ダニエルは連れて来られて、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「おまえがいつも仕えている神が、おまえをお救いになるように。」
6:17 一つの石が運ばれて来て、その穴の口に置かれた。王は王自身の印と貴族たちの印でそれを封印し、ダニエルについての処置が変えられないようにした。
6:18 こうして王は宮殿に帰り、一晩中断食をした。側女も召し寄せず、眠ることもしなかった。
6:19 王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った。
6:20 その穴に近づくと、王はダニエルに悲痛な声で呼びかけ、こうダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか。」
6:21 するとダニエルは王に語った。「王よ、永遠に生きられますように。
6:22 私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした。それは、神の前に私が潔白であることが認められたからです。王よ、あなたに対しても、私は何も悪いことはしていません。」
6:23 王は大いに喜び、ダニエルをその穴から引き上げるように命じた。ダニエルは穴から引き上げられたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。
6:24 王が命じたので、ダニエルを中傷した者たちが連れて来られて、その妻子とともに獅子の穴に投げ込まれた。彼らが穴の底に達しないうちに、獅子は彼らをわがものにして、その骨をことごとくかみ砕いてしまった。
6:25 それから、ダレイオス王は、全土に住むすべての民族、国民、言語の者たちに次のように書き送った。「あなたがたに平安が豊かにあるように。
6:26 私はここに命じる。私の支配する国においてはどこででも、ダニエルの神の前に震えおののけ。この方こそ生ける神、永遠におられる方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。
6:27 この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の手からダニエルを救い出された。」
6:28 このダニエルは、ダレイオスの治世とペルシア人キュロスの治世に栄えた。

参考箇所 ダニエル1:1-7
1:1 ユダの王エホヤキムの治世の第三年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに来て、これを包囲した。
1:2 主は、ユダの王エホヤキムと、神の宮の器の一部を彼の手に渡された。彼は、それをシンアルの地にある自分の神の神殿に持ち帰り、その器を自分の神の宝物倉に納めた。
1:3 王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエルの人々の中から、王族や貴族を数人選んで連れて来させた。
1:4 それは、その身に何の欠陥もなく、容姿が良く、あらゆる知恵に秀で、知識に通じ、洞察力に富み、王の宮廷に仕えるにふさわしく、また、カルデア人の文学とことばを教えるにふさわしい少年たちであった。
1:5 王は、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当てた。三年間、彼らを養育して、その後で王に仕えさせることにした。
1:6 彼らのうちには、ユダ族のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。
1:7 宦官の長は彼らに別の名前をつけた。すなわち、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナンヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号  


説教アウトライン      
① 異国で成長するダニエル
② バビロンの国で仕えるダニエル
③ 晩年の円熟期のダニエル
④ ダニエルの二つの奇跡
⑤ 獅子の穴から生還したダニエル

ダニエルは礼拝を続けた~獅子の穴からの生還~
ダニエル書6:1-28

 神を愛する人生という今年度のテーマを考えながら、聖書の人物やエピソード、とくに旧約聖書から学んできました。私たちの教会は「狭いけど誉れ」という折句acrosticがあるのですが、聖書、交わり、祈り、献金、伝道、奉仕、学びと進んで、本日は最後の「礼拝」です。礼拝について過不足なく語るというのではなく、礼拝といえば旧約聖書のだれを思い出すかという視点で、本日はダニエルを取りあげます。

(異国で成長するダニエル)
 ダニエルは、祖国の南ユダ王国がバビロンの王ネブカドネツァルに滅ぼされたとき、バビロンに(捕虜として)連れてこられた少年の一人でした。ダニエル書1:3-5にこうあります。〈(ネブカドネツァル)王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエルの人々の中から、王族や貴族を数人選んで連れて来させた。1:4 それは、その身に何の欠陥もなく、容姿が良く、あらゆる知恵に秀で、知識に通じ、洞察力に富み、王の宮廷に仕えるにふさわしく、また、カルデア人の文学とことばを教えるにふさわしい少年たちであった。1:5 王は、王が食べるごちそうや王が飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当てた。三年間、彼らを養育して、その後で王に仕えさせることにした〉。これが紀元前605年くらいのことです。
 少年ダニエルは、カルデヤ民族の支配するバビロンの優秀な官僚になるため、ユダから連れてこられた同世代の友人らと共に英才教育を受けることになります。ユダヤ人ですが、バビロンで役立つ者となるために、バビロンの教育を受けるわけです。バビロンで生活しやすいように、ダニエルはベルテシャツァルという名前をもらいます。
 現代でも、アジア人がアメリカなどで生活するとき覚えてもらいやすいようにJohnとかJackieとかBruceとかEnglish name(American name)を付けることがあります。日本でもお相撲さんになるときは日本的な名前をもらいます。いまの横綱は照ノ富士。日本に帰化もしたので照ノ富士春雄さんですが、もともとはモンゴル人だったのでガントルガ・ガンエルデネという名前だったそうです。
 日本はかつて80年以上前に創氏改名といって朝鮮半島の人々にたいへん辛い思いをさせてきました。それは日本人がまだきちんと謝罪していないことのひとつです。そのとき力のあった民族にとって便利だからといって、改名を強制することは罪であり、相手の誇りを奪うこと、悔い改めの必要なことであります。

(バビロンの国に仕えるダニエル)
 さて聖書のダニエルの話ですが、ダニエルは、バビロンの国に馴染みながら、ユダヤの国のまことの神信仰を捨てることはありませんでした。そして成人したダニエルは、ネブカドネツァル王の見た不思議な夢を説き明かして出世します。バビロンのすべての知者(賢者)たちの長官となります(2:48)。また三人の友人たちの位を行政官に引き上げてもらいます(2:49)。
 ネブカドネツァルは激しい独裁者のような王ですが、神からの取り扱いを執拗に受けて、晩年にも、ダニエルたちの信じるまことの神への信仰をはっきりと口にします(4:29-37)。
 そしてネブカドネツァルの次のバビロンの王は、ネブカドネツァルの息子のベルシャツァル王でした。しかしベルシャツァル王は、ネブカドネツァルの経験から学ぶことをせず、かえってまことの神を侮辱するようなことを行ったので、神は幻をとおして語り、ダニエルはその説き明かしをしましたが、それはバビロンが滅びるということでした。
 5:29を読むと、ベルシャツァル王の見た幻を説き明かした功績で、ダニエルがバビロンの国の〈第三の権力者〉に上り詰めたことがわかります。そして5:30-31を読むと、こうあります。ダニエル5:30-31〈その夜、カルデア人の王ベルシャツァルは殺された。5:31 そして、メディア人ダレイオスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ〉。
 これはベルシャツァル王からダレイオス王へと王様が変わっただけではありません。当時の世界の覇者であったバビロンが滅んで、新しくメディア人たちが治めるペルシャの国が新たな覇者として立ったのです。カルデア人たちは隅のほうに追いやられ、代わってメディア人とペルシア人が新たな王権、新たな政府をつくりました。この出来事は紀元前538年のことといわれ、ダニエルがバビロンに捕らえ移されてから70年以上が経過したことになります。

(晩年の円熟期のダニエル)
 6章に入ります。1-5節〈ダレイオスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。6:2 彼はまた、彼らの上にダニエルを含む三人の大臣を置いた。これは、太守たちがこの三人に報告を行い、王が損害を被らないようにするためであった。6:3 さて、このダニエルは、ほかの大臣や太守よりも際立って秀でていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからであった。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った。6:4 大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようとしたが、何の口実も欠点も見つけられなかった。彼は忠実で、何の怠慢も欠点も見つからなかったのである。6:5 そこでこの人たちは言った。「われわれはこのダニエルを訴えるための、いかなる口実も見つけられない。彼の神の律法のことで見つけるしかない。」〉。
 先ほど申しましたように中東世界の覇権に大きな変化が生じました。新バビロニアからアケメネス朝ペルシアの時代に代わったのです。王が替わっただけでなく、多くの大臣や官僚も替わりました。軍制も替わり、公用語となる第一言語も替わりました。法律も〈取り消しのできないメディアとペルシアの法律〉が幅をきかせるようになりました。支配の仕方も、中央集権的なものから、各地域の各民族の主体性を尊重するような治め方に変わったはずです。
 にもかかわらず、あのダニエルは政府の高官であり続けているのです。120人いる地方総督の上に立つ三人の大臣のひとりでした。ダニエルがもし10歳くらいでバビロンに連れてこられたとしたら、80歳ぐらいになっていたでしょう。ダニエルは神からの〈すぐれた霊〉が宿っていたために、まじめで勤勉で有能でした。王は、もっと大きな権限(王国全体を治めさせること)をダニエルに与えたいと考えるほどでした。私たちも仕事をするならば、自分の力だけでなく、神からの霊に信頼したいと思います。
 現代中国で改革開放政策に舵を切った鄧小平という政治家は「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫は良い猫だ」と言ったそうです。どんな思想や信仰の持ち主であろうと平等に競い合える分野があります。ダニエルは、文人のオリンピックがあれば金メダルを取れるような人だったのでしょう。
 妬みに駆られた同僚たちは、何とかダニエルを失脚させようと考えましたが〈何の口実も欠点も見つけられなかった〉のです。それで悪者たちは〈彼の神の律法のことで見つけるしかない〉と考えます。この大臣や太守たちは、ダニエルの信仰がどんなものか実は知っていました。人間的な思惑や、法律や王の命令をもってしても、ダニエルに礼拝を止めさせることはできないことを、何とこの異邦人たちは知っていたのです。

(ダニエルの二つの奇跡)
 9-10節を読みます。〈そこで、ダレイオス王はその禁令の文書に署名した。6:10 ダニエルは、その文書に署名されたことを知って自分の家に帰った。その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた。彼は以前からしていたように、日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた〉。
 ダニエルの礼拝生活が記録されています。自分の家で礼拝をしていました。ダニエルは少年時代から外国に捕らえ移されており、また故郷の神殿は破壊されていました。にもかかわらず、ダニエルは神に礼拝する習慣を堅く保っていました。私たちもコロナ禍のときは教会に集うことが難しかったことですし、教会で礼拝をささげられないときは自宅などで個人的に礼拝を続けていたことを思い出します。
 またダニエルが礼拝をするときには〈その屋上の部屋はエルサレムの方角に窓が開いていた〉とあります。神殿は破壊されており、神殿のあったエルサレムへ行くことさえできないのですが、それでも神殿の場所を意識し、神の約束を信じていたということです(Ⅰ列王8:48、Ⅱ歴代6:38)。
 そしてここではすでに二種類の奇跡が起こっているのです。ダニエルは、いまだ獅子の穴に投げ込まれてはおりません。しかし特筆すべき奇跡があります。
 ダニエルは、それが自分にとっては外国ですが、大きな国の官僚そして大臣にまでなっています。成功者であり、経済的にも豊かだったでしょう。そうしたなかでダニエルは、まことの神への礼拝の生活をやめていないということです。駆け出しの牧師だったころ、ある先輩の伝道者がこう言いました。「苦しいときは苦しいときとしてたいへんですが、上手く行っているときこそ気をつけなければならない」というのです。それは牧師であっても信徒であっても、あるいは教会であっても同じと思います。人が豊かになって満ち足りて「主とはだれだ(何者か)」と言い出す危険があるのです(箴言30:9)。
 そしてもうひとつの奇跡は、礼拝者として信仰を貫けば、自分の生活が損をする。損をするどころか、命も失う。ライオンの穴に投げ込まれるというのに、ダニエルは〈以前からしていたように〉日に三度の礼拝(詩篇55:17)を続けているのです。これもまた、神から来る〈すぐれた霊〉の働きに他ならないと私は思うのです。

(獅子の穴から生還したダニエル)
 ダニエル書には三人の友人のよく似た危機が記されています。3章の記事です。ただ、このときはバビロンの王ネブカドネツァルの独善的な性格がよく出ていましたが、6章の記事では、ダレイオス王は家来たちに騙されて、一ヶ月王様以外を拝まないという禁令に署名したのです。
 エステル書と同じように〈取り消しのできないメディアとペルシアの法律〉が強調されますが、王が常に思うがままに振る舞う徳治主義(人治主義)より、法治主義が正しい面もあるのです。そしてペルシアの王様はよい王様でした。ダレイオス王は、キュロス王(6:28、エズラ1:1他)と同一人物だという説もあるのです。だとすると、このダレイオス王は、ユダヤ人に故郷に帰り、神殿再建をすることさえ促した人物になります。
 さて王は、ダニエルを獅子の穴に投げ込んだその晩は断食し、眠ることもしませんでした。良心的な王です。しかし、止めることはできませんでした。民主的な精神を持つ良心的な人物さえ、人は過ちを加担することがあります。忘れてはなりません。
 悲痛な声でその王はダニエルに言いました。20節〈生ける神のしもべダニエルよ。おまえがいつも仕えている神は、おまえを獅子から救うことができたか〉。するとダニエルは答えました。22節〈私の神が御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の危害も加えませんでした〉。
 多くの人は、ダニエルの獅子の穴からの生還は、イエス・キリストの死からの復活を連想させると言っています。イエス・キリストも殉教するかのように神の御心を選んだのですが、三日目によみがえることでご自分の正しさ(とくに十字架の正しさ)をあかしされました。
 ダニエルを中傷した者たちは、家族さえ巻き込んで、恐ろしい死を遂げました。しかし、おそらくキュロス王でもあるダレイオス王は支配下の多様な人たちに、その信仰を公にします。26-27節〈この方こそ生ける神、永遠におられる方。その国は滅びることなく、その主権はいつまでも続く。6:27 この方は人を救い、助け出し、天においても、地においても、しるしと奇跡を行われる。実に、獅子の手からダニエルを救い出された〉。
 王は、神を〈生ける神〉と告白しました。また〈永遠におられる方〉(永遠の神)と認めました。そして〈人を救い、助け出し〉。救いの神でもあると言ったのです。
 その証拠がダニエルでした。私たちは礼拝を大切にするという意味で礼拝を守っています。しかし、私たちがささげるまことの神への礼拝こそが、私たちの魂や人生を守っています。私たちが礼拝を守る以上に、礼拝が私たちを守るのです。
 そしてダニエルの礼拝が、結果として、キュロス王の信仰を導いたように、私たちがここで献げる礼拝が互いの信仰をそれぞれ強めるし、延いては世界を変えていくこと。このことも、今日覚えてまいりましょう。
 一言お祈りいたします(祈りのことばは省略)。


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