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2024年4月7日礼拝説教「シオンを憎む者はみな~都上りの歌⑩~」(詩篇129:1~8)

聖書箇所  
詩篇129:1~8 都上りの歌。
129:1 「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。」さあイスラエルは言え。
129:2 「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし彼らは私に勝てなかった。
129:3 耕す者たちは私の背に鋤をあて長いあぜを作ったが。」
129:4 【主】は正しくあられ悪しき者の綱を断ち切られた。
129:5 シオンを憎む者はみな恥を受けて退け。
129:6 彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。
129:7 そのようなものを刈り取る者はつかまず束ねる者も抱えることはない。
129:8 通りがかりの人も「あなたがたに【主】の祝福があるように。【主】の名によって祝福あれ」と言うことはない。

参考聖句
詩篇124:1-5
124:1 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」さあイスラエルは言え。
124:2 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら人々が敵対してきたとき
124:3 そのとき彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしていたであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき
124:4 そのとき大水は私たちを押し流し濁流は私たちを越えて行ったであろう。
124:5 そのとき荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

説教ノート 
序・詩篇129篇の特徴
① 農業系の面白い喩え
② 苦難の民の勝利と解放
③ 呪いの詩篇(強い憎しみや恨み)
④ 見捨てられた者たちを祝福する
⑤ 「シオンを憎む者」とはだれか

シオンを憎む者にはみな
詩篇129:1-8
 どこから始めたらいいのか、戸惑っております。覚悟がなかなか決まりませんでした。都上りの歌の10番目、第129篇です。何が特徴なのか、お祈りしたあとで、申し上げたいと思います。祈りましょう。
 「愛するイエス・キリストの父なる神。あなたのお名前を賛美します。あなたは、私たちに〈深みに漕ぎ出すように〉(ルカ5:3)求められることがあります。水の〈深み〉は足で立つことのできない、危険な場所。立つことをあきらめ、浮くか泳ぐかしかない覚悟の要る場所です。しかし、そこでたくさんの魚がとれるかもしれない場所。主への信仰が試される場所です。私たちに与えられた救いが、人間のあたりまえではなく、神の大きな恵みであることを、私たちを〈深み〉に導いて悟らせてください。戦争もあります。災害もあります。病気もあります。他にもたくさんの問題があります。教会が、迫害にもよく耐えて、宣教のあかしをいつも立てることができますよう、この礼拝と交わりを共に祝福してください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
 さて本日は、特徴を述べるところから始めます。4つの特徴を述べますが、4つ目が最も重要な特徴です。
 
(特徴1: 農業系の面白い喩え)
 ひとつめは、農業系の面白い喩えがあることです。
 3節〈耕す者たちは私の背に鋤をあて長いあぜを作った〉。人の背中が畑の表面にたとえられています。鋤を牛に引かせて畑を耕す方法があります。牛が歩くたびに、鋤が耕すので〈長いあぜ〉ができます。この畑の〈長いあぜ〉のような「蚯蚓腫れ」が、イスラエル人の背中にはあるのです。鞭を何度も打たれたに違いありません。
 そして6節〈彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ〉。古代イスラエルの家屋。屋根は、細い木材をわたして、粘土で固められていました。ですから一応、草は生えますが、薄い粘土層では成長しません。それどころかパレスチナの強烈な日光が直射して、あっという間に枯れてしまいます。
 7節で〈そのようなものを刈り取る者はつかまず/束ねる者も抱えることはない〉とありますが、〈屋根の草〉は収穫などとてもできず、売り物にならない。価値がない、無価値ということです。8節は、後でもう一度、考えますが〈通りがかりの人も「あなたがたに【主】の祝福があるように」と言うことはない〉。無視されております。
 
(特徴2: 苦難の民の勝利)
 次の特徴は、先に学んだ124篇とよく似ていることです。何が似ているかというと、冒頭と内容です。内容というのは、イスラエルは苦しい目に遭ったけれど、守られたり助け出されたりしている、ということです。
 124篇を見ましょう。124:1-5〈「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら。」さあイスラエルは言え。124:2 「もしも【主】が私たちの味方でなかったなら人々が敵対してきたとき124:3 そのとき彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしていたであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき124:4 そのとき大水は私たちを押し流し濁流は私たちを越えて行ったであろう。124:5 そのとき荒れ狂う水は私たちを越えて行ったであろう。」〉。
 124篇でも過去が感謝されています。危機があったのだけれど、主の守りがあった。そして、その感謝の告白の第一声は〈もしも【主】が私たちの味方でなかったなら〉です。そして、あたかもリーダーかMCにあたるような人が〈さあイスラエルは言え〉と叫んで、2節でその第一声が繰り返されて5節までの感謝の告白になるのです。
 そして本日の129篇でも同じところがあります。129:1-3〈「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。」さあイスラエルは言え。129:2 「彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし彼らは私に勝てなかった。129:3 耕す者たちは私の背に鋤をあて長いあぜを作ったが。」〉。
 129篇のほうは、感謝の第一声というより勝利の第一声。感謝の告白というより勝利宣言かもしれません。しかし第一声の〈彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた〉は2節でも繰り返されます。そして124篇と同様に、そういうふうに演出しているのは、リーダーかMCにあたるような人の声です。124篇と同じことばで〈さあイスラエルは言え〉と叫んでいます。そして第一声〈彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた〉が繰り返され〈しかし彼らは私に勝てなかった〉という勝利宣言そのものが続くのです。
 この129篇が、このように124篇と似ているのは、冒頭の文学的技巧だけではありません。エジプト人からか、バビロニア人からか、サマリア人からかわかりませんが、神の民イスラエルは攻撃や抑圧を受けているのです。3節の鞭のあとと思われる〈長いあぜ〉や、1節と2節の〈若いころ〉からの連想で、エジプトで400年間奴隷として使役されていたころを考えてしまうのは私だけでしょうか。
 奴隷であった、あるいは奴隷のような状態であった。それはモーセが出てくるまでのエジプト時代もそうですし、バビロニアによって捕囚の憂き目に遭ったころにも、捕囚が終ってパレスチナに戻ったけれど神殿や城壁再建をサマリア人に妨害されたころにもあてはまるでしょう。〈しかし彼らは私に勝てなかった〉、力は弱いのに、虐げられているのに、それでも神の民を滅ぼすことはできなかった、ということでしょうか。
 さらに言えば、4節にこうあります。〈【主】は正しくあられ悪しき者の綱を断ち切られた〉。義であり正しい神様に感謝します。そして〈悪しき者の綱を断ち切られた〉とあるのは、奴隷の状態から神の民が解放されたということでしょう。試練や苦難や迫害の多いイスラエルに、神の守りや助けや解放や勝利が常にあったことが物語られています。
 こうしたことは何に喩えたらいいのでしょうか。喩えとして、もしかしたらあまり適切でないかもしれません。しかし最近(この半年ほどはとくに)思い出す個人的な経験があります。私は人一倍臆病です。小さいときは泣き虫でした。運動神経も悪く、小学生のときは肥満児でした。それで父は見るに見かねて私を週に四日ある柔道塾に通わせました。受身を覚えるのに半年もかかり、道場ではいちばん弱い子どもでした。
 小学校五年生のときでしたが、ある六年生に目をつけられました。その六年生は、ボクを奴隷にしたかったのだと思います。休み時間に、その六年生はもうひとりの六年生と一緒に、ボクを人が誰も来ない図書館の裏に導きました。
 何もしていないのに言いがかりをつけられ、向こうのほうから「やるか」と言われ、1対1の取っ組み合いが始まりました。ただ割と短時間で自分は相手を組み伏せていました。そして柔道塾で教わってボクにもできる肩固めで、相手の首を決めて圧迫しました。途中で肩固めをほどくと反撃されると思って、しつこく止めませんでした。
 その六年生の連れが「おまえの勝ちだから止めろ」と言われるまで続け、相手は首をさすりながら負けを認めて、そのときからもう絡まなくなりました。休み時間は終っていて教室に戻りました。図書館裏のコンクリで寝技をしたので、それなりに擦り傷もありました。友だちにも、先生にも、親にも、このことは言わずにおきました。口外しないほうがいいと、なぜか思ったからです。
 
(特徴3: 呪いの詩篇)
 この詩篇129篇の特徴の第3に行きます。124篇に似ていることを先ほどお伝えしましたが、まったく似ていないところもあります。それをこれからお話しします。
 同じような形式の冒頭があり、主の守りや力強い導きを描いたのですが、後半は違います。129:5-8を読みます。〈シオンを憎む者はみな恥を受けて退け。129:6 彼らは伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。129:7 そのようなものを刈り取る者はつかまず束ねる者も抱えることはない。129:8 通りがかりの人も「あなたがたに【主】の祝福があるように。【主】の名によって祝福あれ」と言うことはない〉。
 本日のタイトルは5節の〈シオンを憎む者はみな恥を受けて退け〉から取りました。ご存じのように〈シオン〉とはエルサレムの別の呼び方で、もっと広げて言えばイスラエル民族全体を指すと言ってもいいでしょう。神の民であるシオンは、奴隷状態、虐げられた苦しみの状態でした。しかし正しい主の守りがあり、勝利や解放がありました。
 そうした選民に対する守りや解放や勝利だけで、納まっていないのが、この129篇です。〈シオンを憎む者〉が〈みな恥を受けて退け〉と歌うのは、呪詛(呪い)ではないでしょうか。すでに見た6節と7節では〈伸びないうちに枯れる屋根の草のようになれ。そのようなものを刈り取る者はつかまず束ねる者も抱えることはない〉と言っています。
 つまり「誰も相手にしない無価値な者となれ」ということです。さらに8節では「だれからも祝福されない(あいさつされない)者になれ」。よほどの抑圧や意地悪や虐待を、神の民は受けてきたのでしょうか。憎しみや恨みが強く信仰者の心に宿ってしまっている。報復を受けよ。信仰者の闇落ちを、私は否定できません。
 よく似た124篇は「敵の攻撃や迫害から守られてよかった」で終っているのに、この129篇はそれで終っていない。だれかに対する明らかな呪詛(呪い)が記され、歌われています。古代において呪詛は、暴力に匹敵すると思います。小学五年の男子が、小六の男子を肩固めで決める。もう少し(それよりも)激しい話だと思います。
 
(特徴4: 見捨てられた者を祝福する)
 この詩篇129篇の特徴の最も重要な4番目を述べます。それは8節後半の訳や解釈の問題です。129:8をもう一度〈通りがかりの人も「あなたがたに【主】の祝福があるように。【主】の名によって祝福あれ」と言うことはない〉。これは信仰者を抑圧してきた人たちへの裁きとして、孤立や孤独が生じることを言ってもいると思います。
 しかし、ちょっとしつこい感じがしなかったでしょうか(私はしました)。そして、この8節は別の訳の可能性を持っているのです。日本語訳聖書では、関根訳、岩波訳、そして協会共同訳が〈【主】の名によって祝福あれ〉という部分を切り離しているのです。
 つまり129:8は、こんな訳になります。〈通りがかりの人も「あなたがたに【主】の祝福があるように」と言うことはない。私たちは【主】の名によってあなたがたを祝福する〉。つまり、神からの裁きとして〈シオンを憎む者〉は例外なく〈恥を受けて退く〉。〈屋根の草のように〉価値を認められず、挨拶もされない状態ですが、最後に〈私たちは【主】の名によってあなたがたを祝福する〉と記される。奴隷扱いしていた者への裁きとして奴隷以下の扱いをされるのですが、最後に祝福が語られる解釈の訳です。
 
(シオンを憎む者とはだれか)
 最後に「5節の〈シオンを憎む者〉とはだれか」を考えます。もちろん言うまでもなく、エジプトやバビロンやサマリヤといった外敵かもしれません。主イエスの時代であればローマ帝国の兵士たちを、教会の時代であればクリスチャンを迫害する異教徒たちを考えることができるでしょう。
 しかし〈シオンを憎む者〉をシオン(=イスラエル)のなかにあって不信仰だったり脱落者だったりする内部の者といった解釈もあるのです。言ってみれば裏切り者だから、辱めて退かせる(仲間から外す)ようなこともあるのです。評価もしなければ挨拶もしないことがあるのです。実を伴わない名ばかりの者は「要らない」という論理です。
 きわめて厳しい裁定が、この詩篇では描かれています。「選びから漏れる」といった、悲しむべき事態です。しかしこの事態を新約の時代に生きる私たちは、素朴でnaiveに扱う必要はないのです。いえ、むしろ私たちは、主イエスを読み取るべきではないでしょうか。過去に虐められたからといって、虐めるほうに回るということではない。むしろ名ばかりのイスラエルが、今も真のイスラエルを抑圧しているのではないでしょうか。
 選びの問題でいえば、近代ではこんな理解も生まれています。従来の選びの理解は、神は信じて救われる者を選び、そうでない者を滅びに定めておられる、と理解する。しかし、こんな理解もあるのです。神はキリストにおいてすべての人を救いに選んでいる。しかし神はすべての人においてキリストを十字架の滅びに定めた。これこそが神の予定だとする理解です。私たちは、こうした理解も大切にしたいと考えます。
 旧約聖書もまたイエス・キリストを証言しています(ヨハネ5:39)。私たちは、時には自分こそ〈シオンを憎む者〉であると考えてもよいのではないでしょうか。自分は「これこそクリスチャン」お手本となるような「こそクリ」ではない、どちらかといえば「これでもクリスチャンか」と言われる「でもクリ」かもしれない。
 しかし、そんな私のためにこそ、主は十字架にかかってくださった。三位一体の神様が「でもクリ」の私たちに大きく手を広げて抱きしめようとしてくださっている。手と脇腹の傷を見せてくださって、それこそ〈私たちは【主】の名によってあなたがたを祝福する〉と言ってくださるのではないでしょうか。一言祈ります。
 「抑圧された民族が解放され、力を増してくると、今度は他の民族を抑圧する。私たちもまた、虐げられた苦労はよく知っているはずなのに、今度は自分が虐げる側にいつの間にか回っている。それくらい私たちは根の深い罪人の頭です。しかしそんな者のために、主が十字架で贖いをなしてくださったことを信じます。血潮によって聖めてください。平和をつくる者にしてください。主イエスの御名で祈ります。アーメン」。





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