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2024年8月4日礼拝説教 「エリシャは二倍を求めた~倣って生きる~神を愛する人生⑦」Ⅱ列王記2:1~14

聖書箇所 Ⅱ列王記2:1~14(+15)
2:1 【主】がエリヤを竜巻に乗せて天に上げようとされたときのこと、エリヤはエリシャを連れてギルガルから出て行った。
2:2 エリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。【主】が私をベテルに遣わされたから」と言った。しかしエリシャは言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはベテルに下って行った。
2:3 すると、ベテルの預言者の仲間たちがエリシャのところに出て来て、彼に言った。「今日、【主】があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。
2:4 エリヤは彼に「エリシャ、ここにとどまっていなさい。【主】が私をエリコに遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、彼らはエリコにやって来た。
2:5 するとエリコの預言者の仲間たちがエリシャに近づいて来て、彼に言った。「今日、【主】があなたの主人をあなたから取り上げられることを知っていますか。」エリシャは、「私も知っていますが、黙っていてください」と答えた。
2:6 エリヤは彼に「ここにとどまっていなさい。【主】が私をヨルダンへ遣わされたから」と言った。しかし彼は言った。「【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」こうして、二人は進んで行った。
2:7 一方、預言者の仲間たちのうち五十人は、行って遠く離れて立った。二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、
2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。
2:9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。
2:10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」
2:11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。
2:12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。
2:13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
2:14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、【主】はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。
2:15 エリコの預言者の仲間たちは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言って、彼を迎えに行き、地にひれ伏して礼をした。

参考箇所 Ⅰ列王記19:19-21
19:19 エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、
19:20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」
19:21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた。

マタイ 28:19-20
28:19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
28:20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。

Ⅰコリント 4:15-17
4:15 たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。
4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。
4:17 そのために、私はあなたがたのところにテモテを送りました。テモテは、私が愛する、主にあって忠実な子です。彼は、あらゆるところのあらゆる教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。

Ⅰコリント 11:1 私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。

マタイ 11:27-30
11:27すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

ヨハネ 13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。

マタイ 23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。 23:9 あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。 23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号  

説教アウトライン     
① 二人の預言者の徒歩旅行
② 二人の預言者の別れ
③ 教会の教育
④ 直接と間接の学習
⑤ 霊の賜物

二倍を求めたエリシャ~倣って生きる~
Ⅱ列王記2:1-14
(二人の預言者の徒歩旅行)
 本日私たちが開いております聖書の箇所は、師弟関係にある二人の預言者が旅をしている姿、徒歩旅行です。ギルガルというのは、この時代、預言者学校があった場所と考えられています。このギルガルからベテルへ、ベテルからエリコへ、エリコからヨルダン川の畔へ。そしてエリヤは不思議な方法でヨルダン川を西から東に渡ります。
 ギルガルでも、ベテルでも、エリコでも、エリヤとエリシャは同じような会話をします。エリヤは弟子のエリシャに「ここにとどまれ(付いてくるな)」と言うのです。しかしエリシャは〈【主】は生きておられます。あなたのたましいも生きています〉と言います。これは誓いのことばを述べるときの当時の慣用句(決まり文句)でした。
 そしてエリシャは何を誓ったかというと〈私は決してあなたから離れません〉ということでした。エリシャは、ベテルにも、エリコにも、ヨルダン川の畔にも、いっしょに付いていきました。ベテルの預言者仲間も、エリコの預言者仲間も、そしてこのエリシャという同伴者も、その日、エリヤがどうなるか知っていました。
 エリヤとエリシャ、二人はとうとうヨルダン川の畔へ到着しました。50人ほどの預言者の仲間たちが、距離を置いて二人を見守っています。聖書は言います。Ⅱ列王記2:7b-8〈二人がヨルダン川のほとりに立ったとき、2:8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った〉。
 エリヤは、ただの預言者ではなく、奇跡を起こす預言者でした。ツァレファテでの出来事もありましたが、何よりバアルの預言者450人と天から火を降らせる勝負をして、イスラエルからバアル信仰を駆逐しました。そしてエリヤの祈りによって大雨が降り、数年の飢饉を終らせました(Ⅰ列王17-18章)。
 そんなエリヤも、直後に、燃え尽き症候群になって荒野に逃亡したことがありました。神のことばのために、時の政府に逆らいました。女王イゼベルの殺意を買いました。追われる身となり、自らの死を神に願いました。そんなエリヤを神は懇ろに扱いました。そして、そのとき神は「エリシャをエリヤに代わる預言者にせよ」とも命じたのです。
 Ⅰ列王記19:19-21には以下のような記事があります。〈エリヤはそこを去って、シャファテの子エリシャを見つけた。エリシャは、十二くびきの牛を先に立て、その十二番目のくびきのそばで耕していた。エリヤが彼のところを通り過ぎるとき自分の外套を彼に掛けたので、19:20 エリシャは牛を放って、エリヤの後を追いかけて言った。「私の父と母に口づけさせてください。それから、あなたに従って行きますから。」エリヤは彼に言った。「行って来なさい。私があなたに何をしたか。」19:21 エリシャは引き返して、一くびきの牛を取り、それを殺して、牛の用具でその肉を調理し、人々に与えてそれを食べさせた。それから彼は立ってエリヤについて行き、彼に仕えた〉。
 この記事にあるようにエリヤの跡を継いでイスラエルの霊的指導に当たるのは、このエリシャであったのです。ある意味、預言者仲間も知っていたはずです。しかし、このときエリヤは「付いてくるな」と何度も言い、エリシャの気持ちを挫くのです。エリシャはエリヤに〈私は決してあなたから離れません〉と三度言います。
 エリヤは、自分の地上の人生がいよいよ終るのを知っていました。それで、後継者のエリシャを試していたのかもしれません。またエリシャを連れて、ベテルやエリコを回ることで、自分が去ることと次はエリシャだと預言者仲間に示していたのかもしれません。そして、エリヤの外套でヨルダン川の水面が打たれ、水が両側に分かれます。
 出エジプトのとき、モーセの手が紅海を分けました(出エジプト14:21-31)。ヨシュア率いるカナン侵攻のとき、主の契約の箱がヨルダン川に入ると水はせき止められました(ヨシュア3:7-17)。この二つの事件を彷彿とさせる、エリヤの奇跡でした。

(二人の預言者の別れ)
 ヨルダン川を東に渡って、エリヤとエリシャは二人きりになります。Ⅱ列王記2:9〈渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った〉。
 自分がこれからどうなるかを、エリヤはいよいよ口にしました。エリヤは、地上から竜巻に乗って、天に上げられるのです(Ⅱ列王記2:1)。エリヤはエリシャに「私から求めよ」と言います。
 エリシャの答え。それはエリヤの霊のうちから〈二倍の分〉を欲しいということでした。父が死んだときの財産の分け前。これを他の子どもたちの相続する分の二倍もらえるのは、長子(長男)の権利でした(申命記21:17)。後継者のしるしとして〈あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください〉とエリシャは言ったのでしょう。
 「自分の師であるエリヤ先生より偉くしてください」という意味ではないと多くの人から言われています。あとで、違う角度から考えます。
 エリヤの答えです。2:10〈エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」〉。エリヤが何度も「付いてくるな」と言いました。しかし最後までエリヤの側を離れないのが正解であったのです。そのことだけでも、エリシャがエリヤから学んだ後継者だとわかります。
 2:11-12〈こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。2:12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた〉。
 創世記5章のエノクと並んで、死を見ることなく天に上げられたと称されるエリヤです。その働きは大きく、エリシャの悲しみは大きなものでした。神から遣わされた〈火の戦車と火の馬〉が二人の間を分けたのです。しかしエリヤは、偉業と共に、身につけていた外套を残しました。エリシャが拾って、形見としました。
 Ⅱ列王記2:13-14〈それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。2:14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、【主】はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った〉。
 エリヤがヨルダン川を西から東へと渡りました。エリシャが今後エリヤの務めを担うためには、このヨルダン川を東から西へと渡らなければなりません。〈「エリヤの神、【主】はどこにおられるのですか」〉。エリヤが外套で水を打って、乾いた土の上を歩いたように、エリシャも同じことができました。あとに続く15節ではエリコの預言者仲間~エリコはヨルダン川のすぐ近くです~が、その預言者仲間が〈「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」〉と発言し、ひれ伏して礼をするほどにエリシャを認めています。
 エリシャが、エリヤの力を受けて、ヨルダン川を渡り直したこと。これは、かつてヨシュアがヨルダン川を渡って約束の地を制圧したのですが、霊的には、まだまだ、これからでした。むしろバアルのような偶像信仰が駆逐されて、まことの神信仰がヨルダン川を渡った約束の地に広がること、霊的な第二のヨルダン渡河を象徴しているのです。

(教会の教育)
以上、私は説教の半分の時間をこの出来事の解説に当てました。今日のテーマは「狭いけど誉れ」の7番目「ま」の学びです。教会教育とか信徒教育ともいいますが、復活されたイエス・キリストも弟子たちに〈わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい〉(マタイ28:20)と言われました。
 このことば(マタイ28:20の教育の命令)から何を知ることができるでしょうか。教会の交わりのなかで教える働きは、キリストがこうあってほしいと願っている命令が内容だということです。そういう意味からも、私たちひとりひとりの目標は〈キリストに似た者になる〉(Ⅰヨハネ3:2)ことです。
 そして教会教育は〈キリストに似た者になる〉目標からもわかるとおり、偏ったものではなく〈神のご計画のすべて〉(使徒20:26)を教える必要があります。正義と愛は両立しますが、片一方だけ教えるのは問題です。信仰をあまりに個人化してしまい社会問題に疎いのも困ります。しかし、キリストの救いとは、まず〈たましいの救い〉(Ⅰペテロ1:9)が基本だということを忘れてはなりません。私たちは、主の再臨を究極の希望としつつ、日常生活もおろそかにしないよう教えられなければなりません。
 またキリストは〈すべてのことを守るように教えなさい〉と言われました。「知るように」ではなく〈守るように〉です。頭の知識ではなく、生活や行いでキリストの知識が実践されることが肝要です。〈キリストに似た者になる〉目標からも納得がいきます。

(直接と間接の学習)
「信仰による救いとは何か」をこんな言い方で表現することもできるでしょう。救いとは、キリストの恵みによって神の子になること、そして、そのキリストの弟子となることです。主は言われました。マタイ23:9-10〈あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。23:10 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです〉。
 しかし神は救いのご計画のために人を用います。第一に、イエス・キリストは人となられた神の子でした。しかしパウロは、他の魂を伝道して救いに導くと、私はこんな存在だと言いました。Ⅰコリント4:15-16〈たとえあなたがたにキリストにある養育係が一万人いても、父親が大勢いるわけではありません。この私が、福音により、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。4:16 ですから、あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください〉。パウロはここで自分はコリントの都市の信徒たちの親のようなもので、コリントの兄姉たちは自分をお手本として歩めと言っています。
 私たちは神とキリストに直接に倣うだけではなく、神とキリストを豊かに模範とするために人をとおしても学ぶのです。パウロは、コリントの信徒たちに、このようにも勧めました。Ⅰコリント11:1〈私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい〉。
 パウロに倣うという観点からも、私たちはパウロがそうであるようにキリストから直接学ぶことが重要です。キリストご自身も〈わたしから学びなさい〉(マタイ11:28)と言われました。教会の交わりで〈互いに愛し合いなさい〉(ヨハネ13:34)という新しい戒めがありますが、それもキリストの私たちへの愛をお手本にするのです。
 しかし、一方で私たちは、キリストから学ぼうとするとき、自己流になったり、独りよがりになったりしやすいのです。謙虚な態度で、他の人がキリストに倣っている姿を見て、参考にするのです。そのために教会の教職は存在しますし、教会の交わりはそのような切磋琢磨のなかで互いに見習って営まれます。たとえば学校というものが同じような必要や意欲を持つ者が集められて教育効果が上がるとすれば、教会という交わりは同じような信仰や使命を持つ者が集められてキリストに似た者がつくられていくのです。
 教会の教育においては、直接的にも間接的にもキリストに倣うことが重要です。他者も自己も完全ではありませんが、子なる神は人となって私たちの救い主となり、また模範となられました。キリストを基準に自分のことも他者のことも測るべきです。

(霊の賜物)
 キリスト教教育は、知識を増やすこと以上に、行いや生活の変化が重要になります。そうなってきますと、知性以上に、当然、霊性が強調されます。いえ、霊性の涵養なくして、知性も正しく働きませんし、ましてや行いや生活がよくなることはないのです。
 そういう意味でエリヤが天に上げられる直前、エリシャがエリヤに何を求めたかに注目したいのです。「与えられた務めと自分の現実との間のギャップを知る故の深い求めがエリシャにあったのだろう」とある人(舟喜信)は言います。外面に倣うのではなく、その霊の力の秘密を知りたいと願った。形だけではなく、神の霊の取り扱いを自分も望んだのです。霊の二倍の分け前とは、先生より偉くなりたいという野望ではなく、先生の二倍くらいの霊の分け前がなければ自分には務まらないと考えたのかもしれない。〈神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる〉(Ⅰペテロ5:5)のです。
 私たちがキリストに倣う場合はどうでしょうか。イエス・キリストについては、神が御霊を限りなくお与えになると書いてあります(ヨハネ3:34)。これは、キリストご自身についてそうですが、神とキリストもまた、私たちに測りきることのできない聖霊を私たちに与えてくださいます。
 私たちはどうしようもないくらい罪深いのですが、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、イエス・キリストの御霊によって神を親しく父と呼ぶ者(神の子)とされ、イエス・キリストを主と告白する者(すなわちキリストの弟子)となったのです。私たちは主の再臨のときキリストによく似た栄光の姿に変えられますが、その姿を目標に、私たちは地上でキリストに倣って歩むのです。クリスチャンは、キリストに倣ってこそ、クリスチャンらしいし、キリストにも少しずつ似てくるのです。一言祈りましょう。


https://youtube.com/live/jyylPg-mvYU



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