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2024年3月17日礼拝説教「主を恐れる人は確かに祝福を受ける~都上りの歌⑨~」(詩篇128:1~6 )

聖書箇所  詩篇128:1~6
都上りの歌。
128:1 幸いなことよ【主】を恐れ主の道を歩むすべての人は。
128:2 あなたがその手で労した実りを食べることそれはあなたの幸いあなたへの恵み。
128:3 あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ。
128:4 見よ【主】を恐れる人は確かにこのように祝福を受ける。
128:5 【主】がシオンからあなたを祝福されるように。あなたはいのちの日の限りエルサレムへのいつくしみを見よ。
128:6 あなたの子らの子たちを見よ。イスラエルの上に平和があるように。

参考聖句
マタイ10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

参考聖句
ヨハネ19:25-27
19:25 イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。
19:26 イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
19:27 それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号  

説教ノート 
序・新約の視点で旧約を読む
① 主なる神を恐れること
② 横道に逸れて
③ 他者を励ますことばの群れ
④ 未来志向の共同体

【主】を恐れる人は確かに祝福を受ける
詩篇128:1-6
 旧約聖書のほぼ真ん中にあります詩篇という書物。古代イスラエルの賛美歌集で、大小ならぬ長短150篇の詩が収められております。その150篇のうち第120篇から134篇まで同じ表題が付いておりまして〈都上りの歌〉といいます。この〈都上りの歌〉のシリーズを年明けから順に学んでおりまして、今日が9回目、詩篇128篇です。
 この128篇は、従来、結婚の祝福、あるいは家庭の祝福として、読むことがふつうでした。たしかに印象的なのは3節〈あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ〉です。彼の妻が〈たわわに実るぶどうの木〉にたとえられ、彼の子どもたちが〈オリーブの若木〉になぞらえられていて、理想的な家庭のイメージが描かれています。
 しかし私が繰り返し言っておりますように、旧約聖書は新約聖書の視点から(とくに十字架につけられたキリスト・イエスをひっさげて)読み解かれていく必要があります。そうでないと教会に集う私たちが、ナイーブな旧約聖書に引っ張られて、素朴・純真ではあっても、平気で無慈悲なことを行なう人になってしまいます。
 もちろん旧約聖書もまた、神の霊感によって書かれた、神の聖なることばですから、投げ捨ててはなりません。私たちが聖書を調べて読むのは、聖書のなかに永遠のいのちの救いがあると思っているからです。そして聖書は(新約聖書だけでなく旧約聖書も)イエス・キリストについて証ししているはずなのです(ヨハネ5:39)。
 一言祈ります。「愛する神様。本日も旧約聖書の詩篇から共にあなたの御思いを汲み取ってまいります。ほんとうに大切なことは何か。あなたの独り子イエス・キリストは身をもって、それこそ命をかけて教えてくださいました。感謝します。今日も私たちは、強い集団が弱い集団を支配しようとする戦争の大義に反対し、同時に、時間の経過と共に命が失われていく戦争の即時停止を願います。また、私たちの国にはたいへん多いことですが、地震災害が様々なものを奪っていくことにも痛みを覚えます。地震が地震だけで終わらず、火災や津波や原発事故といったさらなる悲惨も含めて、私たちは復旧・復興を願います。そしてこのような時代のなかでキリストの福音を証しします。どうか主よ。聖霊ご自身が礼拝の只中にいる私たちの心を導き、しっかりと明日からの日々に備えさせてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
 
(主なる神を恐れること)
 1節〈幸いなことよ【主】を恐れ主の道を歩むすべての人は〉。神である主を恐れる。そこには自分勝手な道を歩むのではなく〈主の道を歩む〉という人生があります。
 どうしてかというと、周りの顔を見て自分も人に合わせて信仰するという話ではないからです。主なる神を恐れるというのは、心のなかでほんとうに恐れているのです。ですから、そこには行動があります。習慣化した生活もあります。そして思い切った決断もあります。神を恐れる信仰があるからです。
 それは4節の〈見よ【主】を恐れる人は確かにこのように祝福を受ける〉とも繋がります。神である主を恐れる人は例外なく〈幸い〉であり〈祝福を受ける〉のです。私たちは、神ではなく、ただ周りの人の評価や噂を恐れて、生活してはいないでしょうか。
 イエス・キリストは言われました。〈からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい〉(マタイ10:28)。鼻で息をする人間(イザヤ2:22)は、どんなに権力や武力を持っていたとしても、私たちの〈たましい〉を殺すことはできない。そう言われたあとで、主イエスは、父なる神を〈たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方〉と言われました。〈ゲヘナ〉とは裁きの火が燃える永遠の地獄のことです。
 主なる神を恐れよ。それは「天を恐れよ」と言い換えてもいいかもしれません。先週の3月11日に経済産業省前で脱原発の集会が開かれ「天を恐れよ」という猟師さんの大漁旗の写真を掲げてもらいながら、スピーチをした男性がいました。これは『東京新聞』に報道されて、家内に教えてもらいました。「天を恐れよ」という大漁旗の写真。この大漁旗をつくったのは川辺茂さんという石川県のクリスチャンの方です。すでに天国に凱旋されていますが、志賀原発をはじめとする能登半島の原発建設に反対して、北陸電力では「鬼の川辺」とまで恐れられていたと聞いたことがあります。しかし恐れなければならないのは、政府でもお金でもなく、ましてや川辺さんでもありません。「天を恐れよ」、そこには主なる神を知った川辺さんに与えられた〈主の道〉がありました。
 
(横道に逸れて)
説教の準備。ほぼ最後には原稿をつくるのですが、最初の意図とは違う方向に進むことがよくあります。しかしまさか〈都上りの歌〉から自分が川辺茂さんの話をするとは思いませんでした。この7月私は東京地区連合の企画で、この教会で実習生として奉仕した宮崎哲郎先生のいる紀南地区連合の教会を訪問しようと考えています。和歌山県と三重県の南端、紀伊半島です。ちなみに紀伊半島には一基も原発がありません。
 そしてまた元旦にあった能登半島地震の関連でいうと、志賀町には北陸電力の原発が二基ありますが、地震のもっとも被害が大きかった珠洲市にも原発建設計画はあったのです。2003年に「凍結」ということばで建設計画は中止になったのですが、このたびの能登半島地震では震源地が珠洲市内であったため珠洲に原発がなかったことに多くの人が感謝したと言われています。
 
(他者を励ますことばの群れ)
「天を恐れよ」という大漁旗の話から、原発立地の話までしてしまいました。ただ皆さんに分かってほしいのは、主を恐れて主の道を歩むとは「楽な道を歩む」ことではないのだということです。自分が周りとは違う考えの人として、少数者の歩みを余儀なくされる、不利な条件が課されるかもしれない。しかし、それでも〈【主】を恐れ主の道を歩むすべての人は〉〈幸い〉に違いない。また刮目せよ。〈【主】を恐れる人は確かにこのように祝福を受ける〉のです。
 そこで次に考えたいのは、そのように〈【主】を恐れる人〉の幸いや祝福を保証するような声はどこから出てくるのかということです。この詩篇も〈都上りの歌〉のひとつですから、まず私たちは紀元前のイスラエル人が場合によっては何日も旅をして神殿のあるエルサレムに上り、神に特別な礼拝をささげて故郷の町や村にまた帰る、そのときに唄われる歌であるはずです。
 そして気がつかれたでしょうか。この詩篇128篇は〈あなた〉という二人称単数の代名詞がやたらと多いのです。これはだれかがエルサレムに上る信仰者をねぎらったり励ましたりしている歌です。エルサレムに住んでいる信仰の一般の人たちなのか、神殿に仕える祭司たちなのか、それはわかりません。
 礼拝をするための〈都上り〉。故郷がエルサレムから遠ければ遠いほど経費も時間もかかるはずです。家族を残してエルサレムに来た人もいるでしょう。ほんとうの意味で神を恐れたり愛したことのない人は、犠牲を払って神を礼拝することの意味がわかりません。コスパcost perfomance やタイパtime perfomance が悪い、と言うかもしれません。
 そんなときにどうでしょうか。「主を恐れ、主の道を歩む人は幸いです」と歌い始める人たちがいたらどうでしょう。
 詩篇には〈わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか〉(詩篇42:5他)とか〈わがたましいよ主をほめたたえよ〉(詩篇103:1他)とか自分で自分を鼓舞し励ますような歌もあります。しかし、ここでは同じ信仰を持っている仲間から〈あなたがその手で労した実りを食べることそれはあなたの幸いあなたへの恵み〉(128:2)と言われているのです。〈あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ〉(128:3)とも言われているのです。
 ボンヘッファーという神学者は『共に生きる生活』という本のなかで、「他の人の心のなかにあるキリストは自分の心のなかにあるキリストよりも強い」という言い方をしています。これは自分の信仰が他の人より弱いということではなくて、どんな人でも自分ではない人の口から信仰の励ましを受けることが必要で大切だと語っているのです。
 このことは5節のことばからも明らかです。128:5〈【主】がシオンからあなたを祝福されるように。あなたはいのちの日の限りエルサレムへのいつくしみを見よ〉。〈シオン〉はエルサレムの別称です。そして新約の時代に生きる私たちは、この〈シオン〉や〈エルサレム〉を地理的な限定をもって解釈するのではなく、霊的な普遍性を持ったイエス・キリストの教会として理解します。
 言語や民族の枠を超えた信仰共同体、キリストのからだ、神の家族、聖霊の宮、霊的イスラエル、どんな言い方でもよいですが、教会とはキリストによって聖なる者とされた人たち(聖徒)の交わりです。聖霊に導かれた教会の交わりなくして健全な信仰生活はない、と言っていいほどです。
 
(未来志向の共同体)
 最後に、エルサレムの仲間たちは、どんなふうに信仰者の祝福を語ったか見ていきましょう。2節に〈あなたがその手で労した実りを食べること〉とあるように勤労の祝福を語りました。自ら働けることも恵みですが、働いても搾取されてばかりで飢えるのみの社会構造も、国によっては、残念ながら存在します。主の道を歩んで勤労の祝福に与ることは、神からの約束として信じることもできますし、主の道を歩む者の目標のひとつとしても受けとめることができます。私たちの神は、経済においても主なる神です。
 3節には〈あなたの妻は家の奥でたわわに実るぶどうの木のようだ。あなたの子どもたちは食卓を囲むときまるでオリーブの若木のようだ〉と祝福が語られています。なぜ大人の男性が主人公なのか、独身者に祝福はないのか、また127篇のように多産のみを祝福とするのか、とたくさんのクレームが現代の社会批評家から突っ込まれるかもしれません。性的少数派の人たちにも配慮しなければならないかもしれません。
 ただ、現代においてはとくに注意するにしても、次のことは経験的にはっきりと言えます。私は個人的にキリストを信じて神を愛して恐れる者となった。そして同じ救い主を信じる教会の交わりのなかで働くことの祝福も教えられたし、結婚や家庭についても教えられた。そのことのゆえに、私はこれまでキリストを信じて生きてきてよかったと思っている。私たちの神は、具体的な現実の生活においても主なる神である。
 また、こんなことも指摘しなければなりません。この妻や子どもたちによって恵まれている信仰者は、どんな家庭で育ったのか書かれていないということです。私はクリスチャンホームの出身ではありません。また、クリスチャンホームの出身者にも親に恨みがましくなる人がいることも知っています。子どもに大きな悪影響しか与えないので離れたり別れたりするほうがいい親のことを、現代では毒親といいます。先週、富山県出身の24歳女性が実の父親を刑事告訴したことが報道されました。こういう事例を考えますと、どんな親でも感謝しなさいと説くことは不可能だとも思います。
 主イエスは十字架にかかってまさに死なんとするときに、自分の母マリアと弟子のヨハネに向かって〈「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」〉〈「ご覧なさい。あなたの母です」〉と言われました(ヨハネ19:26-27)。主は十字架の上からでも、血縁を超えたもうひとつの家族(教会)を構想されました。
 6節には〈あなたの子らの子たちを見よ〉とあります。しかし現代に生きる私たちは、今日の詩篇から血縁の家族の祝福だけを読み取らなくてもいいのです。
 まず、私たちは実の親をはじめとする先人の影響を受けています。よい影響だけならよいのですが、深刻で悪い影響もまた存在します。自分のしでかした過ちもあるでしょう。しかし主の恵みは、先人の過去も、自分自身の過去も、主の血潮で聖めて〈良いことのための計らい〉(創世記50:20)となさいます。
 次に、私たちは、良い同労者を得ることになります。3節の〈妻〉のたとえは、実際の配偶者にあてはめてもよいし、あてはめなくてもよいのです。しかし少なくとも教会のなかで、自分を助けてくれる友人を見つけることはできるはずです。
 第三に、私たちは次世代を養うことができます。前の学びでも語りましたが、私たちは、後に続く人たちのために少しでも善いものを残して渡そうとするときに、生きがいややりがいを感じることができるのです。教会に一日でも早く来た人は、先輩として新しく来た人を励ますことができます。また青年や子どもたちの祝福を祈りましょう。
 第四に、次世代の養い方は、6節がヒントになります。〈あなたの子らの子たちを見よ〉とあるように、子ども世代が孫世代を祝福できるようになることを願うのです。パウロは次世代の伝道者としてテモテに目をかけていましたが、彼への手紙の中でこう述べています。Ⅱテモテ2:2〈多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい〉。パウロはバルナバという人に育てられましたが、パウロはテモテを育てました。霊的に訓練したのです。しかしテモテもまたその次の世代に委ねることをするのです。テモテの次の世代もまた〈ほかの人にも教える力のある信頼できる人たち〉でなければなりません。バルナバ、パウロ、テモテ、〈ほかの人にも教える力のある信頼できる人たち〉、さらにこの人から教えられる人と信仰訓練の五世代を数えるのです。教会が健全であれば過去の歴史からも学びますが、現在を大切に考える未来志向となり、あらゆる時代のあらゆる人たちを祝福する共同体となるのです。そして信仰に生きる人たちをいつも励ますことができます。私たちも、励まし、励まされる者です。そのために教会が健全であること(6節後半)を祈っていきましょう。
 一言祈ります。「主よ。私たちは信仰に導かれていますが、これでよいのかと迷うときがあります。自分で自分を励ますだけでなく、信仰の仲間の存在が大いに助けになることを告白します。どうぞ教会に連なるお一人お一人とその交わりをあなたの聖霊によって導いてください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。








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