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2024年4月14日礼拝説教「夜回りが夜明けを待つのにまさって~都上りの歌⑪~」(詩篇130:1~8)

聖書箇所  詩篇130:1~8
都上りの歌。
130:1 【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます。
130:2 主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。
130:3 【主】よあなたがもし不義に目を留められるなら主よだれが御前に立てるでしょう。
130:4 しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます。
130:5 私は【主】を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。
130:6 私のたましいは夜回りが夜明けをまことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます。
130:7 イスラエルよ【主】を待て。【主】には恵みがあり豊かな贖いがある。
130:8 主はすべての不義からイスラエルを贖い出される。

参考聖句 詩篇129:5
129:5シオンを憎む者はみな恥を受けて退け。

参考聖句 詩篇69:1-2
69:1 神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。
 69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。

参考聖句 イザヤ6:5
6:5 私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」

参考聖句 創世記4:15&23-24
4:15 【主】は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた。

4:23 レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。
 4:24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」

参考聖句 ローマ2:28-29
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号

  説教ノート 序・深い淵とは
① 恩顧を踏みにじるレメク
② 赦してくださる神
③ 夜明けを待つ夜回りのように

夜回りが夜明けを待つのにまさって
詩篇130:1-8
 先週は129篇から語りました。129:5の〈シオンを憎む者はみな恥を受けて退け〉は、もはや呪いだと言いました。続く129篇の後半の節も、自分たちに害をなす「敵」への呪詛です。敵が無価値な者となり、周りから無視されろ。激しい言葉です。
 正直、こんな129篇を扱うのに困りました。途方に暮れてもいたのです。では、最終的にどうして説教の原稿を書き始められたのか。実は、本日の130篇。1節が目に留まったからです。〈【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます〉とある〈深い淵〉。〈深い淵〉を読み解くため129篇がある(=この場所に存在している)とさえ思ったのです。
 詩篇129篇は、人間の暗い部分を描いております。どれだけ暗いかと言えば、人間は分からなかったり足りなかったりして悪に墜ちる面もあるけれど、しかしそれだけでなく、分かっていたり満ち足りていても悪に陥るということです。
 先週の日曜日の夜、妻に言われました。説教を聞きながら、今のイスラエルの話が出ると思ったけれど「出なかったね、」という話でした。そうなのです。人は、かつて窮地に陥って、その窮地から神の恵みや力によって助け出されたとしても、そのことで神に感謝し、神に倣って生きようとするかというと、そうでもないのです。
 近代におけるイスラエル国家の建設は、19世紀後半にシオニズム運動が勃興し、20世紀にイギリス統治下でユダヤ人の移民が本格化し、アラブ人との緊張は生まれておりました。しかし何と言っても第二次世界大戦後、イスラエル国家が建設され、同時に私たちの知っているパレスチナ問題が起こります。そして、昨年秋から始まった戦争は、いまもパレスチナ、ガザ地区のたくさんの民間人(子ども含む)を犠牲にしています。
 なぜ1948年イスラエル国家は建設できたのか、欧米をはじめとする国際社会の後押しがあったわけですが、それはヒトラー率いるドイツナチス政府によってホロコースト(600万人ものユダヤ人の大量虐殺)があったからです。ユダヤ人を助けたいという声が強くなったわけです。ドイツは、このナチス時代の反省や懺悔から、いまもヨーロッパのなかで、アメリカ以上にイスラエル寄りの立場を取っています。
 歴史的に見てユダヤ人は、1世紀と2世紀に「国を持たない民族」となり、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教になってから迫害も受けるようになりました。ナチスのホロコーストはその最たるもの。そのように差別や抑圧を受け続けたユダヤ人が、今度は建設した自分の国を守り続けるため、パレスチナにいるアラブ人に何十年も差別や抑圧を与え続けている。そのことは、とても残念なことです。
 たとえば詩篇124篇は敵対していた人々の攻撃から守られた。そういう感謝の賛美でした。しかし、先週の129篇は、自分が圧迫を逃れると〈シオンを憎む者〉に呪いをかけ始める、そんな恐ろしい歌です。十字架にかかられた主は〈(自分の)敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい〉(マタイ5:44)と教えられました。ですから、私たちがこの詩篇129篇をナイーブに(あるいはストレートに)読んでいいはずがないのです。
 もう一度言います。私たちは、何かが欠けているので罪を犯すことがあるけれど、満たされていても罪を犯す。神の力や恵みに与っていても、聖霊の助けがなければ、神を悲しませるあらゆる罪を犯すリスクを持っているということです。罪を犯すから私たちは罪人になるだけでなく、すでに罪人だから罪を犯します。聖書でいう《罪》とは、掟違反であるだけでなく、神から離反した人の棲む世界の、呪われた構造でもあるのです。
 詩篇130:1〈【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます〉。詩人は、水の浅いところではなく深いところ、浅瀬ではなく深淵に立っています。自分の問題も、他の人の問題も、世界の問題も「心がけ次第ですべて解決」と考えているなら、その人は認識不足です。まだ踝くらいの水の深さでパチャパチャと遊んでいるのです。
 〈深い淵(=深淵)〉とは、言ってみれば、こういう祈りをすることです。詩篇69:1-2〈神よ私をお救いください。水が喉にまで入って来ました。69:2 私は深い泥沼に沈み足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています〉。沼か川か海か、あるいは、あなたの自宅の部屋か。どこであっても、罪が人類とその世界にもたらした深淵に気がつくことがあります。言ってみれば、このような気づきです。旧約聖書イザヤ6:5〈私は言った。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」〉。
 〈唇〉とは、まことに人を汚す言葉や思いや態度が、とくに顕われるところです。若き預言者イザヤは、①自分は〈唇の汚れた者(=罪人)〉で、②周りも(世界も)〈唇の汚れた者(=罪人)〉だと言っているのです。周りはすばらしく自分だけが罪人だとするのは間違いで、自分は正しいのに周りが罪深いとするのも間違いです。「自分も世界も罪深いことが分かりました」とイザヤは言っているのです。
 そして、この罪認識は、③「自らが高く聖なる神、万軍の主を見た」ことと関係しています。詩篇130:1-2〈【主】よ深い淵から私はあなたを呼び求めます。130:2 主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください〉。聖なる神を信じることと、世界と自分の罪深さを認めることは、キリスト教では表裏一体、コインの裏表です。
 
(恩顧を踏みにじるレメク)
イスラエルは、自分も差別や迫害を受けてきたのに、自らが力を得ると他を差別し、迫害する側に回りました。しかしWikipediaによると、最も戒律を厳格に守るユダヤ教の超正統派というのがあるそうです。[最も戒律を厳格に守る(ユダヤ教の)超正統派は、パレスチナ人の地域の領土を奪いイスラエルを建国した事に対し、イスラエルが聖書の「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」に違反しているとして、「彼らは禁忌を犯した」という認識を持つ。「聖書の教えに反した行いは同胞といえど肯定できない」とし、「真のイスラエルは人ではなく我らの神が作る天の御国である。」、「メシア(救世主)が現れないと真のユダヤ国家は実現できない、しかし、まだメシアは現れていない、だから現在のイスラエル国家は偽物であり、認められない。」という立場をとっている]そうです。イスラエル国内でもきわめて少数派だと思いますが、貴重な意見です。
 神の恩顧や恩恵に与りながら、残念な事例は、聖書にないでしょうか。私は、創世記4章に出てくるレメクの言葉を思い出しました。レメクは、アダムから7代目の子孫、そして実の弟を殺したカインの子孫でもあります。
 ご存じのように、アダムとエバの長男カインは、弟アベルを殺したあと、その罪を主から責められ〈地上をさまよい歩くさすらい人〉(創世記4:12)となることを宣告されます。その罰の重さについてカインはこう言います。創世記4:13〈カインは【主】に言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません〉。そしてカインは、人を殺した自分は、きっと殺される。〈私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう〉とも思います。
 しかし主はカインにこう言いました。〈【主】は彼に言われた。「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」【主】は、彼を見つけた人が、だれも彼を打ち殺すことのないように、カインに一つのしるしをつけられた〉(創世記4:15)。殺人犯だからと言って殺されないよう、神はカインの安全を保証しました。
 カインに向けた神の配慮に、カインの末裔はどう答えたのか。レメクは、カインから6代目の子孫で、複数の妻を公然と持ったことでも知られています。そのレメクはこう嘯きます。創世記4:23-24〈レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。4:24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」〉。
 いかに神の御心から逸脱していようと、レメクは自分の安心と安全を優先させました。自分が傷つけられたら、相手のいのちを必ず奪うと宣言しています。さらに先祖のカインは、神から〈カインを殺す者は七倍の復讐を受ける〉と言われましたが、レメクは〈カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍〉というのです。ひたすらに「自分のいのちのみに価値がある」と主張する有力者レメクの言葉です。レメクに神の恵みも赦しも残念ながらまったく見えていません。
 しかし本日の中心箇所の3節にはこうあります。詩篇130:3〈【主】よあなたがもし不義に目を留められるなら主よだれが御前に立てるでしょう〉。自分も周りも罪深いとしても、罪も汚れも傷もない、聖なる神、主がおられます。他者がどんなに犠牲になろうが、良心の痛まないレメクのような者にも、裁きのために主の御前に出るときが必ず来ます。
 
(赦してくださる神)
〈深い淵〉と表現されるほどの罪悪が、この世の中に棲む人間にはあるのです。聖なる主は、この罪深いヒト(人類である私たち)をどうなさるでしょうか。3節と4節を共に読みましょう。詩篇130:3-4〈【主】よあなたがもし不義に目を留められるなら主よだれが御前に立てるでしょう。130:4しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます〉。
 聖なる正義の神が〈もし不義に目を留められるなら〉私たちは滅ぶより他にないのです。主は裁き主です。しかし4節にはこうあります。〈あなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます〉。私は聖書を読み始めて50年近く経とうとしていますが、この4節を何度も読み間違いか印刷の間違いではと考えてしまいそうになります。
 ふつう恐れというのは、自分への強く厳しい態度から生まれるのではないでしょうか。〈あなたが赦してくださるゆえに〉ではなく〈あなたが赦してくださらないから〉とか〈必ず裁かれるゆえに〉とかでしたら、あまり悩まず、簡単に私たちの人生経験から理解できると思うのです。怖かった親や先生や上司を思い浮かべればいいのです。
 ちなみに、この詩篇130篇は、都上りの歌というだけではなく、特別なグループにも入ります。旧約聖書の詩篇は全部で150篇ありますが、古代教会以来、悔い改めの詩篇といわれるものが7つあって、詩篇130篇はそのひとつです(他は6,32,38,51,102,143)。しかし他の6つと比較するとわかりますが、とても短くあっさりとしています。
 そしてもうひとつの分類があります。私たちもよく知っている宗教改革者のマルチン・ルターが『卓上語録』という本に書いているようですが、「どれが最上の詩篇か」と訊かれました。ルターは「パウロ的詩篇」と答えたそうです。旧約聖書の詩篇ですが、新約聖書のパウロの神学を先取りした内容ということでしょうか。ルターは、悔い改めの7つの詩篇から4つ、32篇・51篇・143篇と共に、この第130篇を挙げたそうです。
 ああ、皆さん、噛みしめてください。130篇の4節〈あなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます〉。不義に対する神の赦しが、正しい意味での、神への恐れ(敬虔)をもたらすのです。どうしてなのか、わからなくても、皆さん、取るものも取りあえず「ありがたい」と感謝しましょう。これこそが、神の恵みです。
 しかし信じて受けとる以外に、理由を考えたい方もおられるでしょう。なぜ罪の裁きではなく、罪の赦しが神への恐れをもたらすのか。主を信じつつ、探求しましょう。とくに学生さんは探求しましょう。なぜなら学生は「学んで生きる」と書くからです。
 
(夜明けを待つ夜回りのように)
 ああ、聖なる恐れをもって、神を知るとは何とすばらしいことでしょう。それはまた、喜びと感謝をもって、神ご自身を体験することでもあるはずです。
130:5-7a〈私は【主】を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。130:6 私のたましいは夜回りが夜明けをまことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます。130:7a イスラエルよ【主】を待て〉。
 生きた信仰のあかしは、主に期待することです。主に期待できると、礼拝は祝福となります。礼拝者は、人ではなく、神に期待して集まります。礼拝は主が招いてくださった、キリストの事実です。
 そして7節後半から8節まで〈【主】には恵みがあり豊かな贖いがある。130:8 主はすべての不義からイスラエルを贖い出される〉とあります。この〈贖い〉ということばに豊かな味わいがあります。罪や不義が赦されるとは、個人や民族から罪が消え去る(帳消しになる、ゼロになる)ということで神の恵みです。しかし無から有を生み出す神の天地創造が奇跡であるように、あるはずの罪が消え去ることも奇跡なのです。そして実は、消え去るのではなく、移動したのです。人類のあらゆる罪が、十字架上の神の子イエス・キリストにのしかかって、罪が人から消えたのです。これが贖いです。
 このようにして、神の独り子は捨てられ、罪の奴隷である私たちは拾われました。もし復活がなかったら、神の正義や真実は見えないままであったでしょう。
 そして最後に神を待ち望むすばらしいたとえに注目いたしましょう。〈私のたましいは夜回りが夜明けをまことに夜回りが夜明けを待つのにまさって主を待ちます〉。〈夜回り〉とは、他の人が寝台で眠っている時間に仕事をする人です。おそらくこの人たちは神殿を中心に警備しているのでしょう。この〈夜回り〉の喩えを美しく思う人もいれば(牧野信成)、早朝に犠牲を献げるレビ人の奉仕を絡めて敬虔さを演出する人もいます(小畑進)。しかし私は何より〈夜回り〉の仕事を、次のように考えます。
 〈夜回り〉の仕事は責任も大きい。しかも辛い仕事です。私たちは仕事をするとき、こう考えます。あと何時間で仕事から解放される。昼の仕事でもそうなのですから、夜の仕事はなおさらです。泥のような疲れが最後に襲ってくるときもあります。そして夜明け前が一日のうちでいちばん暗いのです。篝火が必要で、忍耐も試されます。
 今日、私たちは詩篇そのものを味わうだけでなく、創世記4章のレメクなる破廉恥漢の不敬虔なことばも読んできました。神の赦しや救いを軽視し、ただ自らの繁栄と安全のみを願う生き方。しかし〈外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、…、かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり〉と聖書は言っています(ローマ2:28-29)。
 「♪我は病みて裸、目に光なけれど、ただ君見上げつつ、我行かまし」(新聖歌450番)。私たちは謙り、今週一週間も〈夜明け〉を待ちつつ、真実に歩もうではありませんか。
 一言祈ります。「主よ。私たちは私たちなりに今週も生活を整えて歩みます。世界は平穏でもありますが、隠れたところに痛みがあります。そんななか、戦地や被災地のため、家族や友人や兄姉のため懸命に祈ります。真にあなたのことを喜ぶ、罪の赦しをさらに広めさせてください。福音を福音として信じ、魂も肉体も世界のあらゆる状況も、あなたの御心で癒してください。イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。




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