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2024年3月31日復活日礼拝説教「不滅のいのちキリスト~礼拝・日常・心の深み~」(ヨハネ20章~21章)

聖書箇所  
ヨハネ20:1~21:23
[ 20 ]
20:1 さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。
20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛されたもう一人の弟子のところに行って、こう言った。「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」
20:3 そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。
20:4 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
20:5 そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。
20:6 彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
20:7 イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。
20:8 そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった。
20:10 それで、弟子たちは再び自分たちのところに帰って行った。
20:11 一方、マリアは墓の外にたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、白い衣を着た二人の御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、一人は頭のところに、一人は足のところに座っているのが見えた。
20:13 彼らはマリアに言った。「女の方、なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私には分かりません。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、彼が園の管理人だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないのです。わたしの兄弟たちのところに行って、『わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方のもとに上る』と伝えなさい。」
20:18 マグダラのマリアは行って、弟子たちに「私は主を見ました」と言い、主が自分にこれらのことを話されたと伝えた。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」
20:24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
20:25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
20:26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
20:30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
20:31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
[ 21 ]
21:1 その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。
21:4 夜が明け始めていたころ、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、イエスであることが分からなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。
21:7 それで、イエスが愛されたあの弟子が、ペテロに「主だ」と言った。シモン・ペテロは「主だ」と聞くと、裸に近かったので上着をまとい、湖に飛び込んだ。
21:8 一方、ほかの弟子たちは、魚の入った網を引いて小舟で戻って行った。陸地から遠くなく、二百ペキスほどの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。
21:10 イエスは彼らに「今捕った魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
21:11 シモン・ペテロは舟に乗って、網を陸地に引き上げた。網は百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったのに、網は破れていなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ、朝の食事をしなさい。」弟子たちは、主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。
21:13 イエスは来てパンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに言います。あなたは若いときには、自分で帯をして、自分の望むところを歩きました。しかし年をとると、あなたは両手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をして、望まないところに連れて行きます。」
21:19 イエスは、ペテロがどのような死に方で神の栄光を現すかを示すために、こう言われたのである。こう話してから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子がついて来るのを見た。この弟子は、夕食の席でイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、あなたを裏切るのはだれですか」と言った者である。
21:21 ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。
21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスはペテロに、その弟子は死なないと言われたのではなく、「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか」と言われたのである。

参考聖句
ルカ24:5-7
24:5 彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。すると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。
24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」

参考聖句
Ⅰコリント15:5-10
15:5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

参考聖句
Ⅰ歴代 4:10
ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4–2–3号


説教ノート 
序・イースターおめでとう
❶破壊されなかった 復活したいのち
❷犯されることのない健やかないのち 
❸汚れたままでなく聖くされるいのち


不滅のいのちキリスト~礼拝・日常・心の深み~
ヨハネ20:1-21:25
 まことに主は復活なさいました。よみがえりの主は、いまも生きておられます。共に「イースターおめでとうございます」と言ってみたいと思います。「イースターおめでとうございます」。まことに主はよみがえられました。祈りましょう。
 「愛するイエス・キリストの父なる神。私たちは、日曜ごとに毎週、救い主であるあなたの御子イエスの復活を記念して礼拝をささげておりますが、年に一度、盛大に御子の復活をお祝いいたします。もしキリストがよみがえらなかったら、その信仰は空しく、私たち信仰者もまた、今なお自分の罪のなかにいるというみことば(Ⅰコリント15:17)もあるほどです。今日、この礼拝に集うお一人お一人が、御子の復活を覚え、御子のその復活によって私たち一人一人も聖く正しく愛のなかを歩めることを、聖書のことばと聖霊によって示してください。イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン」。
 
(破壊されなかった復活のいのち)
 本日のメッセージは、決して短くはないし、内容も濃い、ヨハネ福音書20章と21章から、一回のわかりやすい説教をするという無謀な試みであります。説教題に掲げましたとおり、イエス・キリストの復活によって明らかにされた神の永遠のいのち、不滅のいのちについて語りたいと願っております。不滅のいのちとは何か。
 第一にそれは、どんなものにも壊されない復活のいのちということです。
 死は、イエス・キリストを滅ぼすことができませんでした。十字架の上で、主イエスは確実に死んでおりました。兵士たちの検視の結果、他の囚人と違って主は死んでいたので足の骨を折って止めを刺さなかった、と書いてあります(ヨハネ19:31-33)。
 しかし念のためか悪戯か兵士のひとりがイエスの脇腹を槍で突き刺しました。そして槍が刺されたところから〈すぐに血と水が出て来た〉とも書いてあります(ヨハネ19:34-35)。これは、兵士の槍が心臓あるいは大血管系を突き刺したために、心停止があって、血液が血清と血餅に分離していたということです。主は十字架にかかって午後3時過ぎには死んでいたのです(マルコ15:34参照)。
 主イエスは仮死状態ではなくほんとうに死にました。そして死者にふさわしく葬られました。アリマタヤのヨセフという人が、まだ誰も埋葬されていない、自分が所有する、岩を掘って造った新しい墓に、主イエスの死体を納めます。そして大きな石を転がして、洞穴のような墓の入口を塞ぎました。このような洞穴の墓が当時の標準だったようです。
 そして日曜日の朝に異変が発見されます。ヨハネ20:1〈さて、週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た〉。マグダラのマリアは、土曜安息日が明けて主イエスの墓を訪ねようとした女の弟子たちの代表として、名前が挙げられています。
 イエスを葬った墓には、もはや主イエスの身体はなく、ペテロを代表とする男の弟子たちも駆けつけます。空の墓です。途方に暮れます。しかし天の御使い(天使)が現れて告知するのです。ルカの書いたものから御使いのことばをフォーカスします。ルカ24:5-7〈あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。24:6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう〉。
 復活の出来事は、空の墓という客観的に動かない歴史の事実であると共に、御使いに始まる途轍もない臨時ニュースでもあるのです。さらに復活した主イエスが、マグダラのマリアに始まって多くの目撃者をつくっていきます。墓に遺体はなく、御使いが復活を知らせるだけでなく、主ご自身が顕われます。
 復活の目撃者については、パウロが手紙でこう述べています。Ⅰコリント15:5-8〈また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。15:7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。15:8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました〉。
 〈ケファ〉というのは、十二弟子の筆頭のペテロです。ペテロをはじめとする十二弟子。さらに500人もの弟子たちに同時に顕われ、証人の数が多いのです。さらに主イエス復活までは信じていなかった主の兄弟ヤコブ。そして、主の教会を熱心に迫害していたパウロも、復活の主が出会ってくださったので、信じて証人となったのです。
 復活したイエス・キリストは、あの最初の日曜日から40日間弟子たちに顕われ、天に昇って父なる神の右に座りますが、聖霊を送ってくださいましたし、いまも私たちと共にいてくださいます。それがいちばん分かるのはいつでしょうか。礼拝です。
 あの最初の日曜日の礼拝は夕方であったとヨハネ福音書は告げています。ヨハネ20:19-20〈その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20:20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ〉。
 空の墓を目撃し、復活の知らせを聞き、さらに個人的に復活の主と出会った経験があったとしても、なお当局からの迫害を恐れる弟子たちでありました。〈ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた〉のです。しかし主はそんな気持ちの弱い弟子たちの真ん中に立ってくださって〈平安があなたがたにあるように〉と言ってくださるのです。
 さらに主はこの礼拝において弟子たちを宣教に遣わすのですが(20:21-23)、何よりこの礼拝は主の十字架の死にフォーカスを当てるものでありました。平安の挨拶を述べながら〈イエスは手と脇腹を彼らに示された〉。十字架の太い釘が貫いた〈手〉と、兵士の槍が突き刺した〈脇腹〉です。ものすごく大雑把に言いますが、主イエスの復活によって十字架の死が有り難いもの、感謝な出来事になったと言ってもよいのです。
 そのように主イエスの復活は、十字架の信仰と、主を喜ぶ礼拝と、福音の宣教に結びつけられます。これはきわめて教会的なことです。さらに次の日曜日には、最初の日曜日に欠席していた弟子のトマスが、仲間たちに執りなされて集まりに参加します。そして、このトマスが、復活の主に目が開かれて〈「私の主、私の神よ。」〉と告白します。この告白は、ヨハネ福音書のクライマックスとも言われています。
 
(犯されることのない健やかないのち)
 さて私たちはヨハネ20章を中心にイエス・キリストの復活の出来事を読んでまいりました。これで終りかというと、そうではありません。「付録」とか「補遺」と呼ばれることもありますが、21章のエピソードも私たちの人生にとって重要な出来事です。
 21:1を読みましょう。ヨハネ21:1〈その後、イエスはティベリア湖畔で、再び弟子たちにご自分を現された。現された次第はこうであった〉。続く21:2には7人の弟子たちのうち5人の名前が列記されますが、そのなかには、ペテロやゼベタイの子たちだけでなく、あのすばらしい信仰告白をした〈デドモと呼ばれるトマス〉も入っています。
 さらに21:14には〈イエスが死人の中からよみがえって、弟子たちにご自分を現されたのは、これですでに三度目である〉と書いてあります。弟子たちは、すでに復活の主イエスに会っております。十字架を示され、礼拝で主を喜びました。世に遣わされるために聖霊をいただき、他の人への霊的権能もいただいております。
 しかしヨハネ21章がおそらく主張しているのは、私たちの人生は、復活の主イエスとたった一度出会うだけではなく、出会い続けることができる幸いがあるということです。それも日曜日の集まりだけではなく、それ以外の時間や生活においても復活の主イエスと出会い続けられるということです。
 すべては神のなさることですが、私は一昨日なくし物をしました。教会のドアのキーカードだったのですが、あわてました。一生懸命探したし、自分も責めました。昨日、妻が車の運転席と助手席の間で見つけてくれるまで、私の心はどんよりしていました。しかし見つかると私の心は晴れ晴れとなり「主よ感謝します」と言いたくなりました。
 人間の信仰は、少なくとも私の信仰は、多くの目に見えることに左右されます。ペテロたちが復活の主と出会ったのに、なぜティベリア湖(=ガリラヤ湖)のほとりで集まって漁を始めたのか分かりません。〈私は漁に行く〉(21:3)と言い出したペテロに何か多少の荒んだ気持ちを感じるのは私だけでしょうか。そして最悪なことに皆で小舟に乗り込むのですが〈その夜は何も捕れなかった〉(21:3)のです。
 しかし復活の主は漁師たちの仕事場にも現れてくださって〈子どもたちよ、食べる魚がありませんね〉と言ってくださるのです(21:5)。〈舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます〉とも言ってくださり、弟子たちは網を引き上げることができないほどの〈おびただしい数の魚〉に歓喜します(21:6)。
 そして復活の主イエスは弟子たちと朝食を共にします。主が私たちの飲み食いを助けてくださいます。たとえ魚が捕れなくても、主の用意した魚とパン、そして炭火が熾されていました(21:9)。私たちの生業はそれぞれ異なることでしょう。しかし主は私たちの仕事を助け、経済を守り、食事を豊かにしてくださる方です。
 どうぞ目に見えるすべての試練のなかにある方に、復活の主によって、癒しと助けと慰めのありますように祈ります。日本国憲法の第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という文言がありますが、神の国の民はその「健康で文化的な最低限度の生活」をキリストの復活を根拠に、神にも求めてまいりましょう。いいえ、私たちは旧約聖書のヤベツのようにこのように祈ってよいのです。Ⅰ歴代誌4:10〈私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください〉。
 
(汚れることのなく聖くされるいのち)
 ここまでお話をいたしました。キリストの復活の事実は、私たちに神を礼拝すること(キリストを喜ぶこと)を教え、具体的な生活のなかで私たちは神の恵み(キリストのとりなし)を経験することになります。
 しかし、どうでしょうか。私たちの喜びも感謝も、実は目の前のことだけではなく、むしろ魂の癒しや聖めをもっと必要としているのではないでしょうか。
 このときのペテロに荒んだ気持ちがあったとすれば、主が十字架にかかる前の自分の振る舞いにあったのではなかったでしょうか。ペテロは他の誰よりも主への信仰や献身や愛を表明してきた弟子でした。しかし私たちがよく知っているように、主が逮捕され、不正な裁判が行われたその夜に、ペテロは三度主を知らないと否みます。
 人は、他人から責められて弁明したり否定したりすることもあります。しかし自分のなかで「これだけは守りたい」「決して犯してはならない罪」を決めていたにも関わらず、犯してしまうことがあります。自分で自分が赦せない、ほどの罪です。どんな言い訳をつくっても平安がありません。
 復活の主は、ペテロの飲み食いを助けるだけでなく、もっと深い領域に導こうとしました。21:15-17〈彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」21:16 イエスは再び彼に「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」21:17 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい〉。
 口先だけの信仰者ペテロ。主を愛するよりも人々からの承認を求め、マウントを取ることが好きなペテロ。一夜のうちに三度主を否んだペテロに、三度主は〈あなたはわたしを愛していますか〉と訊かれます。さすがに三度の同じ問いに鈍いペテロも気がつきます。焚き火にあたりながら、主を否んだあの夜のことを、主はわかっておられる。
 それは恥ずかしいことでした。みっともないことでした。しかし、愛する皆さん、常のことではないとしても、私たちはペテロのように〈心を痛めて〉主に告白するときが必要なのではないでしょうか。主は、私のような者の罪も弱さもご存じで、赦しを宣言される。聖化の道を開いてくださる。使命を再び与えようとされる。
 それが復活され、今も生きておられる私たちの救い主です。主イエス・キリスト、神の御子です。
 人と比べて誇るのではなく、むしろ人に仕えて、人にゆだねる道。私たちにそれができるでしょうか。復活の主は、私たちそれぞれの必要をご存じです。
 一言祈ります。「わが主、わが神であるイエス・キリスト。あなたのご復活を感謝します。肉体の死はあなたを滅ぼすことがなく、むしろあなたが死を最後の敵として滅ぼすのです(Ⅰコリント15:26)。私たちはあなたが十字架にかかったことを見て、喜びます。救いがそこにあるからです。私たちの毎週の礼拝を祝福してください。また、あなたを愛するその礼拝のゆえに、私たち一人一人の生業や健康、経済や趣味を祝福してください。また、私たちには心を痛めなければならない罪の記憶があります。これらの罪もあなたは十字架において贖ってくださいました。ありがとうございます。私たちのあなたへの愛も献身も、ただ神であるあなたによって支えられ覚えられていることを、謙って告白します。そんな私たちですが、私たちは自分を愛すると同じように隣人を愛します。その隣人愛のゆえに、今日もウクライナの戦争やガザ地区での戦争が終るように祈ります。また能登半島など災害の痛手のなかにある方々、N兄をはじめ病気や怪我で入院中の方々のために祈ります。神の永遠のいのちによって全世界の人たちが主の助けに満たされますように。そのために先に光を受けた私たちが、謙って世界に仕えることができますように。復活された救い主、イエス・キリストのお名前で祈ります。アーメン」。





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