「評伝 中勘助」の執筆を終えて(39)
●昭和三年(一九二八年)
椎貝壽郎との交友が始まる。
椎貝壽郎の回想
姉は椎貝さんから便りがあるたんびに、ほらまたぽちぽちさんからだ といつた。
姉とお私はよく椎貝さんと亡くなつた山田を比べて噂した。どちらも習字が好きでゐながらその割には巧くない。どちらも腕押しが強い。山田は奉公して車をひいたからだといつて私はよくからかつた。どちらも芸事については趣味はよく解しながらどちらかといへば不器用なはうだ。但し椎貝さんに関するかぎり「と思ふ」である。どちらも正式に学校教育をうけてゐないでよく出来る。但し山田のは早く奉公に出たため中学を卒業してゐなかつただけで高等学校からは普通に進んだのだ。しかしそんなどうでもいい類似をおいて二人はその完全な善良さの点で何よりもよく似てゐる。どちらも曲つたことをしないといふよりそれが出来ないやうに生れついてゐる。極端な弱気もよく似てるが、椎貝さんには時にまつ直な人のいつこくからくるムキ―強さではない―があるのに山田にはそれさへない。山田が羊なら椎貝さんは山羊であらう。そして山田が一般に芸術に対していかに深い趣味と理解と敬意をもつたにしても結局はえぬきの哲学者であつたのと反対に、椎貝さんは哲学的な書物も随分好んで読む様子だつたけれど根は多感な詩人肌だつた。私との関係をいへば、私はどちらからも感謝にあまりある好意、親切、奉仕等っをうけてるのだが、年齢の点から山田は同輩とはいひながら私にとつてなくてならぬうつてつけの輔導者であつたし、椎貝さんは最も好ましい若い友人だつた。そして二人とも同じ病気に殪れた。山田もさうだつたやうに椎貝さんも私のところへくると最近に読んで感激した本の話を一所懸命にした。(『鶴の話』所収「故椎貝壽郎氏の思ひ出」より)