『評伝中勘助』覚書(10) 徳満寺

・茨城県北相馬郡布川町
徳満寺

大正6年と7年の一時期、中先生は茨城県布川の徳満寺に滞在しました。どのような伝手をたどったのか、「寺田寅彦、森田草平、鈴木三重吉三氏の思ひ出」に考えるヒントが記されています。

《東大を出て数年、私は栄養失調のためひどい脚気に悩まされて毎夏転地を余儀なくあれた。三十四、五の時だつたらうか、私は森田氏が利根河畔の某寺にゐたことがあるとひとからきいてそこへの紹介を頼みにいつた。それがつきあひの始まりである。森田氏は至極気軽に快く引受けてくれた。》

「某寺」が徳満寺です。森田草平の紹介を得たのでした。森田草平は本名を米松といい、岐阜の出身です。平塚らいてう(らいちょう)との心中事件を素材にした小説『煤煙』の作者として知られています。いくぶん複雑な経緯を経て明治33年に第一高等学校に入学し、明治36年に卒業して東京帝国大学文科大学文学科に進み、明治39年に「英吉利文学受験」で卒業しています。同じ英吉利文学受験で卒業した同期生の中に小山内薫がいました。中先生の2年先輩になりますが、学生時代には親しい交流があった様子は見られません。早くから漱石先生のもとに出入りしていて、その縁で東京朝日新聞の嘱託社員になって文藝欄を担当しました。漱石先生をめぐって形成された人々の輪の中で、中先生は森田を知ることになったのであろうと思われます。

・『妙子への手紙』より
大正6年5月22日の記事
《きのふここへきました。》

・「間引き絵馬」
柳田國男「故郷七十年」より
《・・・約二年間を過した利根川べりの生活を想起する時、私の印象に強く残っているいるのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。その図柄が、産褥の 女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それに角が生えている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子ども心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている・・・》

「妙子への手紙」より
大正6年5月
《このお寺は丘のうへにあります。丘のうへは畑、したは広いひろい田です。丘のはじには大きな松の木が沢山はえて、幹にはろくしやう色の銭苔が蝮(まむし)の斑みたいにくつついて、高いところで蝉がぎいぎい鳴いてゐます。松のあひだから見ると利根川がうねうねとどこまでも銀色に流れて、あちこちに緑の丘があります。ずつと遠いのは眠さうにかすんで、帆掛かけ舟の帆が大きな白い鳥のやうにいくつも飛んでゆきます。》

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