『評伝中勘助』覚書(30) 学生時代

・「瑠璃鳥の死」より
《高等学校の頃私はよく教室へは出ず、朝から上野の動物園へいって気を晴らした。学校や学業が嫌というよりは、そのほかの世界により好ましいものがあった。》

・「斎藤茂吉氏の思ひ出」より
《一高一年の時といへばやがて五十年にもなる。皆寄宿制度といつてすくなくとも新入の一年間は入寮しなければならないことになつてゐた。私のゐたのは南寮六番といふ部屋で、五寮の健児なぞといふ言葉が寮歌にあるのでもわかるとほり、五棟並んでるーこれは後に六つになった。—寮のなかでいちばん南にあるものに属してゐた。同室者九人かのうち私の右隣りに椅子をおいて大きな卓子の角に先頃まで東京附近の高等学校-今の大学-の校長をしてた□□がいた。そこへどの寮からくるのか時おりひょろひょろしたみたいな人がふらふらつと訪ねてきた。山形出身の□□と同窓の様子で、山家丸出しのしかもはえぬきの東北弁のところへ、挙動がきよときよとしたやうなところがあつてなんだかをかしかつた。それが斎藤氏の前身で守谷さんといつた。全集の月報でみると十五で上ノ山町の小学校を卒業して上京し開成中学へ入学した由だから□□とは小学校の同窓であり、東京の生活も既に数年のはずである。》
・□□は藤原正。
・一高時代にはよく寮歌を歌い、よく飲んだ。

・「島崎藤村氏のこと」より
《その後私が中学の四年頃か「落梅集」が出た。私は自分で買つてきて、はじめて読んで、忽ち愛読者になつた。》
落梅集』(明治34年年8月、春陽堂)

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