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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (129) 中島まんさん

 中先生が平塚に家を建てる作業に具体的に着手したのは大正13年の6月ころからですが、計画そのものの芽生えはもっと早い時期にさかのぼります。小石川水道町の家を岩波茂雄に買ってもらったのは大正9年の秋11月。その売却資金を基礎にして母と兄と末子さんの住まいを赤坂表町と定め、中先生自身は平塚でひとり住まい。年に2度、夏と冬に東京の3人と平塚の中先生が入れ替わるという生活様式が定まりました。このような一連の構想を実現するために、この時期の中先生はたいへんな苦心を重ねたのでした。
 中先生は平塚の家でひとりで暮らすことになりましたが、ひとりはひとりでも生活のために必要な身の回りの何もかもをすべてひとりで処理したというのではありませんでした。もう少し正確に言うと、お手伝いさんがいました。それは中島まんさんという人でした。
 昭和48年11月24日に信州野尻湖畔に中先生の詩碑が建立されたことは既述のとおりです。これを機に事業の中心になった安養寺の藤木信滉さんと鹿児島の渡邊外喜三郎先生との間で手紙のやりとりが始まりましたが、その中で平塚時代の中先生を知る中島さんのことが話題にのぼりました。
 昭和49年8月9日、渡辺先生が藤木さんに中島さんのことを知りたいと伝えました。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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