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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (15) 予備試験と選抜試験

 明治29年3月、高等小学校を卒業した山田さんは上級学校には進まず、ただちに商家に奉公しました。この奉公は2年ほど続き、それからまた1年がすぎて、明治32年の春、大阪市立大阪商業学校に入学しました。現在の大阪市立大学の前身で、所在地は大阪市堂島浜通2丁目(現在の大阪市堂島浜2丁目)でした。明治32年の時点での修業年限は予科2年、本科2年、専攻科2年ですから、入学試験に応じて予科第一年級への入学をめざすのが通常の姿ですが、通常の予科第一年の入学試験から始めて順次必要な試験を受けることにより、はじめから第二学年に入学することも可能でした。予科を飛び越えて、いきなり本科に入学する道さえ開かれていました。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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