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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (95) 草花を摘む


 詩碑が完成して除幕式が行われたのは昭和48年11月24日と記録されています。「ほほじろの声」の詩碑が建てられたとき、小冊子(表紙に「ほほじろの声」と記されています)が編纂されましたが、主に執筆したのは藤木信滉(ふじき・しんこう)さんという人です。中先生が仮寓したのは安養寺の御堂に隣接した南座敷の八畳間で、小さな文机があり、その机に向っていつも書きものをしていました。
 藤木さんは安養寺に生れた人で、長野県の県立図書館にお勤めでした。父は藤木信英さんといい、安養寺の御住職。中先生が安養寺に滞在したころは13歳か14歳ほどでした。そのまた父、すなわち藤木さんの祖父にあたる人は藤木信西(しんさい)さんといい、この人が中先生の滞在当時の御住職でした。昭和51年にはじめて野尻湖に出かけて安養寺を訪ねたときにお目にかかったのは藤木さんの父の御住職の信英さんです。中先生が安養寺に滞在した明治44年から昭和51年まで、65年という歳月が流れています。少年の日に中先生と出会い、食事の給仕などをした人に、こうして時を隔ててお会いすることができたのでした。

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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