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『評伝 中勘助』の執筆を終えて(3)

●中勘助評伝用年譜より
江木ませ子さんのエッセイ
「或夜の感想」
(『婦人運動』第十八巻第九号、昭和十五年十月一日発行)
 
東京駅にて計らず青少年義勇軍の出発を見送つた。他の一隅には出征者の一人を数十人の見送りがとりまいて歓送歌を唄ひ万歳を称えてゐる。義勇軍の最前の列車には尋常小学を卒へたばかりと見受けられる子供の一隊があつた。
 まだ母の懐ろの恋しい少年達だ。そしてこの人達も声明を賭しての遠征なのだ。義勇軍の指導者たちなど僅かの人に静粛に送られて出発した。発車の時には頬に涙のおちかかるのを堪へて雄々しくも出発したのだ。両親すらの見送りもなく、是等の少年に、母となり姉となつてあたたかい愛撫の手を差しのべるといふ事も婦人の大きな仕事ではないのか。銀座街頭に立つてカードを渡し、亦は何々婦人会のたすきをかけて唯徒らに家庭をかへりみない女性達にいますこし考へてもらひたいと思ふ。
 先頃故人となられた麻生久氏の通夜の時のこと。夜もふけて霊前に麻生氏の令息と唯二人香をたきながら夢多き氏の生前を語つてゐた。談たまたま新体制の事に移り令息は父上の意のあるところ亦時勢の諸事態など生年の純なる興奮をもつて語られてゐた。私は政治上の事とて自分としての識見も無く無論意見などもあらう筈はないが自分の教養として絶えず見聞を望んでゐたのだ。折から玄関近くたむろしてゐた三四人の人達が令息をよんで次の事を而も声高く云ふのであつた。
『女なんかにあんな話をするのはよせ。わかりもしない、唯心配さえるだけ可哀想だから』
 私は身がふるえる程口惜しく思つた。是程に女は侮辱されてるのだけれど一方関賀へて見れば、日本の大部分の女はかく侮辱されてもしかたがない。無智が多いのだ。唯女学校を出て、嫁して夫の権力金力に依て自分の物質慾権力慾を満足し、智、徳両教養の向上も思はず、社会の状態も、国家の政治の推移の可否も会得しようともしない。これで夫人の権益を、権利を叫んだとて如何にして社会が認め得るか。
 亦、己れに必要以上の衣食快楽をとりつつ民衆上下の生活の不均等を叫んだとて、それは唯言葉の上だけであつて真の実行にはとほいのだ。
 前述の『女なんかに・・・』の女に対する侮辱を女自身もよく考慮すべき事であつて、亦それと同時に、男性もただに女性を侮辱するを以つて事たれりとせず、無智なる者には智をあたへ、正しい実行力の無い者には其の行く道を指導して、男、女、老、若ともに助け導きあつて行つてこそ立派な社会が出来るのではないか。一大原動力がもり上るのではないか。新体制国家からの指導のみを待つてゐないで人各々其心がまへがあつていいと思ふ。
 青少年義勇軍、唯大陸に男のみを送つて女性が安閑としてゐる時でもなからう。創業の苦しみも共にし、荒地に共に骨を埋めてこそ始めて女の使命もはたし権利も認められるのだ。
 男、女、其々とるべき所をとり捨つる可き所を捨てて協力するのでなかつたら人生はあまりに索漠としたものだ。他をせめないで自己反省を中心にして教養を高めてもらひたいと思ふ。
 今東洋は、欧州は、世界は、どう変化するか計り知れない此秋、特に若い女性に、娘でも、未亡人でも、夫人でも、みんな真摯な姿で立ち上つてもらひたいと希望してやまないのである。
  北満の旅に我子を送りし夜半にこれをしたたむ。
 

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