評伝中勘助』覚書(40) 漱石先生(続)

明治35年12月5日、ロンドンを出発して帰朝の途についた。
明治43年6月6日、長與胃腸病院で診察を受けた。7月31日、退院。退院後、医者のすすめにより修善寺に転地。修善寺でも胃痛に苦しみ、大吐血。二箇月ほど病床に釘付けになった。徐々に回復し、担架で汽車に運ばれて新橋に着き、担架で胃腸病院に担ぎ込まれてそこで越年した。修善寺に向けて出発したのは明治43年8月6日。この日、11時の汽車で修善寺に向った。菊屋別館。
8月17日、吐血。
8月19日、吐血。
9月4日、午後、阿部次郎到着。山形から帰り、東京を素通りして修善寺へ。漱石に伝えたら、酒でも飲ましてあげろとのこと。阿部は小宮と二人でビールを飲んだ。
9月5日、安倍と小宮が散歩に出て、帰りに草花をとってきた。花生けに挿した。
9月6日、阿部次郎は午後2時の汽車で東京に帰った。
9月17日、一番で小宮が帰った。
10月11日、帰京。
10月13日、安倍能成が来た。
11月29日、安倍能成が来た。

・漱石全集、第13巻、「日記及断片」より
大正3年
《此漁師の娘といふ下女は奥歯に物のはさまつたやうに絶えず口中に風を入れてひーひーと鳴らす癖がある。始めは癖と思つたがあまり烈しいので、是は故意の所作だと考へた。或時私が外から帰ると彼女は他の下女に歯が痛いと云つてゐた。然し歯医者へ行く様子も何もなくただ気に喰はない音をさせる。無暗にひーひーと遣る。私が威圧的にそれをとめるのは訳はない。然し今迄の習慣として一つ私の気に触つた事をとめると屹度他の何等かの方法で又私の感情を害する事をする、さうしてそれを止せといふと又何か始めて人を不愉快にする。夫で私は已を得ないから向ふがあてつける通りに此方でもひーひーと同じく歯を鳴らし出した。
 私は或日相談があつて本郷の佐々木信綱氏の所迄行かなければならなかつた。すると電車の中で下女と同じやうに奥歯を鳴らすものがある。私も鳴らした。先方は夫で止めた。佐々木氏の家へ着いて一所に大塚の所へ行かなければならなくなつたので同氏の支度を待つてゐると又同じ声が隣室で聞こえた。私も同じ声を向ふと同じ数だけ出した。大塚のうちでは此不愉快の声を聞かずに済んだ。其前の晩に松根が来た。すると彼がまた同じ様に奥歯を鳴らした。歯が痛むのかと聞いたら痛むけれども歯医者へ行くひまがないと云つた。けれども彼は決して歯の痛さうな景色はなかつた。是は土曜である。佐々木へ行つたのは日曜である。中と安倍が水曜に来た。私は下女に何を持つて来て下さいと云つた。是はもとより不自然に聞える言葉遣ひである。然し下女の方で矛盾をやり、其矛盾を語れば好加減な言葉を云ひ。さうして屹度何か外の事で復讐をするから私もわざと私の性質に反したやうな事をやるのである。私が下女に何々して下さいと云ふや否や安倍はいきなり同じ様に歯を鳴らし出した。さうして夫を何遍もやるから君は歯が痛いかと聞いた。すると彼の返事は少し松根と違つてゐた。今度は痛いのではないけれどもなんだか変だと云つて又やつた。私は彼に向つて云つた。私のやうに年寄になるに(ママ)歯が長くなるのみか歯と歯の間がすいて何うしても其隙間に物の挟まつたのを空気の力で取るためにちうちう云はなくてはならない。御客様の前でも失礼な声をさせると云うつて、私の方でも歯を鳴らした。すると安倍の方でも已めない、いつ迄も不愉快な音を出すから私は止むを不已得其音はやめろと忠告した。安倍ははい已めますと答へた。然しもう一返やつていや是は失礼と云つてやめた。》

●漱石訪問
・明治45年・大正元年、10月半ば
安倍能成とともに訪問した。
・同年、野上豊一郎とともに訪問
・大正2年春
ひとりで訪問した。
・歳月不明
「いつだったか先生は「銀の匙」を評して「ああいうのはセンチメンタルっていうんじゃない」といった。」
・歳月不明 大正3年秋かも
安倍能成とともに訪問。
・木曜日にひとりで訪問。
・ひとりで訪問したが、一両日前から少し不快というので面会できなかった。数日後、重態と聞いてお見舞いに行ったが面会はできなかった。さし迫った旅行をのばした。その旅行に立つはずだった予定の日に小宮豊隆から危篤の報が届いた。息のあるうちに行った最後のものになった。「先生はかすかに絶えだえの息の残りをついていた。」
・夏目漱石
1867年2月9日〈慶応3年1月5日〉 - 1916年〈大正5年〉12月9日

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