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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (106) 「銀の匙」の連載のはじまりと山田さんの死


「銀の匙」の掲載決定を告げる3月16日付の漱石先生の手紙を受けて中先生はすぐに返信し、それに対して漱石先生は22日付でまた中先生に手紙を書きました。

漱石先生の手紙
牛込区早稲田南町七番地より
小石川区小日向水道町九十二番地 中勘助へ
《拝啓 御手紙拝見致候 作者の名は中勘助が最上等なれどそれで不都合なら致し方なく候 那迦、奈迦、或は勘助、かんすけ、抔如何に御座候や 小生の小説中々済まず自分も困り大兄にも御気の毒に候或は来月へ出るやも計りがたく候。稿料の義は未だ相談の運に至らず候へども小生中に立ち候上は相当の御礼は可致候然し無名氏の君の事故いくら面白くてもさう沢山は出さぬものと始めから御覚悟は被下度候
 猶々御老母御病気御大事に御看護必要と存候 安倍も帰郷致候由 先は御返事迄 匆々頓首》

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1,266字
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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