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父を思う(平成23年秋の回想)はじめに 父の病気

 郷里の父は平成二十三年の春四月に満九十八歳になりました。大正二年四月十八日の生まれで、ちょうど中勘助先生の作品「銀の匙」が、漱石先生の推挙を得て東京朝日新聞の文芸欄に連載されはじめたころでした。この年の八月には中先生の第一高等学校のころからの親しい友である岩波茂雄が岩波書店を創業しましたから、父は岩波書店と同学年でもあります。
 この十年ほど、郷里の山村の介護施設で暮らしていましたが、十月末に発熱し、肺に影が見られるので結核の疑いがあるとのことで大間々(群馬県みどり市大間々町)の病院に入院しました。郷里を遠く離れて日々をすごしていますので、地元近郊在住の姉から伝えられた消息なのですが、入院は二週間の予定でした。心配しながら検査の結果を待っていたところ、十一月十六日になって結核ではないという診断がくだりました。熱も下がって平熱になり、食事も普通に食べられるようになったということでしたので、この分なら退院も近いと安心していたところ、翌十七日、肺の機能がひどく落ちているのであぶないと担当医から宣告されたとのこと。急転直下、突然危篤に陥ったというのですが、これにはまったく驚きました。
 結核の疑いがあって入院し、疑いが晴れた時点でいきなり危篤状態というのですから、狐につままれたような心理状態に陥りました。
 平成二十年の年初には母の病気があり、そのおりに経験したあれこれのことが思い出されました。母は父とは別のタイプの老人介護施設に入居していたのですが、体調をくずして病院に運ばれたところ、担当の医師にいきなり、もう見込みがないと宣告されて、終末医療をどうするかと問われました。判断すること自体が嫌で、家族の間に深刻な対立を引き起こす問題に直面するという事態になりました。それから三年と十箇月の月日がすぎて、今度は父の病気に際会してまたしても困難な場面が現れました。

 中勘助先生に『母の死』(岩波書店、昭和十年)という作品があり、齋藤茂吉に「死にたまふ母」という五十九首の連作歌がありますが、三年前に母の危篤に際して『母の死』を思い、茂吉を思いました。茂吉の母は守谷いくという人で、茂吉の故郷の山形県上山(かみのやま)で亡くなりました。東京在住の茂吉は「母危篤」の報を受けて急遽帰郷しました。「死にたまふ母」はそのおりの消息を伝える歌稿で、この連作を構成する歌の五十九首という数字は茂吉の母の享年と同じです。

みちのくの母のいのちを一目(ひとめ)見ん一目みんとぞいそぐなりけれ
ははが目を一目を見んと急ぎたるわが額(ぬか)のへに汗いでにけり
寄り添へる吾を目守(まも)りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば死に近き母が目(め)に寄(よ)りをだまきの花咲きたりといひにけるかな遠天(をんてん)を流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき

 齋藤茂吉の歌集『赤光』(東雲堂書店)から拾いました。『赤光』の初版が刊行されたのは大正二年十月ですが、連作「死にたまふ母」はそれに先立って歌誌「アララギ」の大正二年九月号に掲載されました。茂吉の母が亡くなったのは大正二年五月二十三日ですから、ぼくの父が誕生しておよそ一箇月の後のことになります。大正二年という年にここでも出会います。茂吉は齋藤家に養子に入った人で、もとの名は守谷茂吉といい、第一高等学校では中先生と同期でした。

 中先生の母は昭和九年十月八日に東京で亡くなりました。そのおりの看病記が「母の死」です。次に挙げる詩篇はそこから引きました。

 母が目をぱつちりあいた
 待ちかねた目をぱつちりと
 みんなこい
 みんなこい
 目を
 あいたぞぱつちりと
 けさから待ちかねた目を
 けさからさ
 見える?
 かすかなうなづき
 水?
 かすかなうなづき
 一匙 二匙 三匙
 ついぞ見ないみみづくみたいな顔して
 三匙 四匙 五匙
 不思議にのんだ 目をあいた母が

 中先生の母は鐘(しょう)といい、享年は八十六歳。茂吉の母は脳溢血でしたが、中先生の母は老衰でした。ぼくの母は老衰に肺炎が加わって九十一歳と一箇月で亡くなりました。今はの際にはもう意識が亡くなっていたのですが、じっと見ていたところ、突然ぱっちりと両目があいて、目が合いました。何秒というほどもない瞬時の出来事で、中先生の詩に「母が目をぱつちりあいた」と記されているとおりでした。
 母の死から三年余りがすぎて新たにまた父の危篤の報に接し、またしても茂吉を思い、往時と同じ感情の波に襲われて、茂吉の歌の数々がひときわ胸に沁みました。いくぶん不審な点があることはあるものの、危篤にはちがいありませんので、急遽帰省することになりました。

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