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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (72) 少なくなる手紙
中先生は父の死を語りませんでした。父が亡くなったの明治39年10月15日前後の山田さんの書簡を見ると、直前の10月9日付で第122書簡が書かれています。次の第123書簡は没後の10月23日付で、宛先は安倍さんですが、文面を見ても中先生の父が亡くなったことを承知している様子はうかがわれません。第124書簡は中先生宛で、日付は10月25日。第122書簡から数えると16日ぶりになりますが、平穏な日常の報告の途中で「中は何して居る、姉君はどうしてお出でなさる」とたずね、最後に「又お面でも書いた手紙を呉れたらよろこぶ」などとのんきなことを書き添えています。もっとも姉君はどうしていると問うているところはいくぶん気にかかります。というのは、中先生の父の死をうけて金一さんと末子さんは福岡から上京したに違いなく、山田さんは末子さんが東京にいることを知っていて様子をたずねたと思われるからです。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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