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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (157) 兄の死をめぐって

 兄の死が自死であったことはこのごろでは広く知られるようになりましたが、この事実を一番はじめに公表したのは菊野美恵子さんという人で、新潮社の文芸誌『新潮』の平成13年(2001年)7月号に掲載されたエッセイ「中勘助と兄金一」に書かれています。それまでは知る人ぞ知るという状況で、中先生自身も単に亡くなったと書くばかりでした。菊野さんは末子さんの実家の野村家に連なる人で、末子さんの兄の入江貫一の孫にあたります。
 菊野さんのエッセイには兄が亡くなったときの様子がこんなふうに描写されています。中先生は結婚式の日の朝床屋に散髪に行き、もどってきて、結婚式のために中家に集まっている人たちに「兄さんに挨拶してくる」と言って二階の兄の部屋に上がっていきました。なかなかもどってこないので、階下の人たちは長い挨拶だと思っていたところ、しばらくたって中先生がやっと階段を降りてきました。いつもは立ち居振る舞いの静かな中先生がガタガタと壁にぶつかるような音をたてて降りてきて、なぜか座敷に入ってきませんでした。それで末子さんの妹の松岡初子さんが行ってみると、階段の下に中先生が肩で大きな息をつきながら正座していました。そのときの中先生の顔は「そりゃもう忘れられるものではありません」と初子さんは後に語ったそうです。
「兄さんが死んだ」と中先生が絞り出すような声で言いました。初子さんたちが二階の金一先生の部屋に入ると、金一先生は布団に横たえられていました。縊死(いし)だったのですが、中先生が遺体を降ろし、布団に寝かせたのです。
 菊野さんは渡辺外喜三郎先生が編纂した『はしばみの詩―中勘助に関する往復書簡―』も読んでいて、中島さんが渡辺先生に伝えたことを紹介しています。中先生が理髪に行った留守に女中さんが亡くなっている兄を見つけてすぐに迎えにいったということで、既述のとおりですが、菊野さんはこれを否定して、「事実は勘助自身が発見したのである」と書いています。中島さんと菊野さんがそれぞれ伝えている話の内容にいくぶん食い違いが見られます。菊野さんは野村家の親戚の間で語り伝えられていたことを採集して紹介していて信憑性は高いと思いますが、主に松岡初子さんに由来する伝聞で、

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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。

●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…

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