『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (31) 東京朝日新聞の記事より
藤村操の死は大きな反響を呼びました。一例として、東京朝日新聞の伝える第一報を引いてみます。明治36年5月27日の記事です。
● 学生華厳の瀧に投ず(那珂博士の甥)》
《学者として又愛輪家(註.那珂博士は自転車遊びが趣味でした)有名なる文学博士那珂通世氏の甥なる小石川区新諏訪町五番地藤村操(十八)と云ふは第一高等学校の一年生にて有望の青年なるが、性質温良深く哲理の研究を好みて熱心の余り不可能の原理攻究に煩悶し、終(つい)に一種の厭世家となり、去(さる)二十一日学校の制服制帽を着せしまヽ家出して行方不明となりしに、家人は那珂博士を始め人々に相談して捜索中、翌二十二日一通の書面到達し、日光町旅店小西屋内操とあり。宇宙の真理発見の為め云ふべからざる悲観に陥り、厭世に沈みて死を決したる不孝の罪を許されたしとの意味なりしより、一同驚き俄(にわか)に博士等は日光へ出張したり。
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中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいたるまでの生涯を克明に描きます。
●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれ…
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