『評伝中勘助』覚書(9)  山田又吉

・『くひな笛』所収「染めかへ」より
形見の羽織
《・・・友人のかたみの四十年ぢかい羽織がある。染返したり仕立なほしたりさんざしたのを家内は今年もまた染返すつもりでゐる。》

「友人」は山田又吉。

・「羽鳥」より
昭和20年4月26日
《焼粕で茶をのんでから私は日にあたるために堤のはうへ散歩することにした。「綿入羽織ぢや暑いだらう」といへば和子は「あのセルの羽織が用意してある」といつて箪笥から出してきせながら「洗つたらこんなに見ちがへるやうに綺麗になつた」といふ。それほど綺麗になつたか知らないが洗つただけのことはあるだらう。山田の形見だ。岩波と山田の骨をもつて大阪へいつてからもう三十年になる。これを着せる人がかはるたんびに私はさういふ友人の形見だといふことを話してきかせるのだ。物がいいせいもあらうがよくもつた。今では毛がすつかりとれてセルらしいところはなく、和子はお召しみたいにみえるといふ。セルがお召しとはたいした変りばえだ。》

・『鶴の話』所収「故椎貝壽郎氏の思ひ出」より
《姉とお私はよく椎貝さんと亡くなつた山田を比べて噂した。どちらも習字が好きでゐながらその割には巧くない。どちらも腕押しが強い。山田は奉公して車をひいたからだといつて私はよくからかつた。どちらも芸事については趣味はよく解しながらどちらかといへば不器用なはうだ。但し椎貝さんに関するかぎり「と思ふ」である。どちらも正式に学校教育をうけてゐないでよく出来る。但し山田のは早く奉公に出たため中学を卒業してゐなかつただけで高等学校からは普通に進んだのだ。しかしそんなどうでもいい類似をおいて二人はその完全な善良さの点で何よりもよく似てゐる。どちらも曲つたことをしないといふよりそれが出来ないやうに生れついてゐる。極端な弱気もよく似てるが、椎貝さんには時にまつ直な人のいつこくからくるムキ―強さではない―があるのに山田にはそれさへない。山田が羊なら椎貝さんは山羊であらう。そして山田が一般に芸術に対していかに深い趣味と理解と敬意をもつたにしても結局はえぬきの哲学者であつたのと反対に、椎貝さんは哲学的な書物も随分好んで読む様子だつたけれど根は多感な詩人肌だつた。私との関係をいへば、私はどちらからも感謝にあまりある好意、親切、奉仕等っをうけてるのだが、年齢の点から山田は同輩とはいひながら私にとつてなくてならぬうつてつけの輔導者であつたし、椎貝さんは最も好ましい若い友人だつた。そして二人とも同じ病気に殪れた。山田もさうだつたやうに椎貝さんも私のところへくると最近に読んで感激した本の話を一所懸命にした。》

・魚住折蘆の書簡より
東京本郷より郷里兄正継へ
明治42年9月22日
《安倍が家をもつたといふので、新聞紙上で承つてゐますと云つたら、尊敬しなくちやいかんと云ひました。実は安倍の帰京したことも其前に『国民新聞』に出たのだといふます。着物 - フトンは私の帰京した日の夕方到着しましたが、多少しめりがあるだらうと思ひまして、一夜は福さんのふとんをかりてねました。山田が椅子、寝椅子兼用のを買うたといふので、ほしくなつて今日あたり見にゆくつもりでゐます。山田は郊外へ引越しました。》

・魚住折蘆の書簡より
東京本郷より郷里兄正継へ
明治42年10月10日
《『太陽』じゃ小説と「政友会四人男」、その外一二よみました。「平泉の七日」といふのは今大学にゐるちと足らぬ男がかいたので、其気取りさが滑稽だが読んでみました。「四人男」は『中央公論』の「政友会史論」と共に中々おもしろいものです、政友会といふものがだいぶ面白くかかれてゐます。『中央公論』も岩波といふ男から送つた筈です。東京では私がよんで久保君に行き、山田を経て阿部、岩波といふ順によみました。》

・『影と声』所収安倍能成「友に与ふるの書」より
「友」は藤原正。
『校友会雑誌』明治37年10月
《君と別れてより漸く一週日、七月の初め、我れ急に用あり京都の地に行きたり。居ること二週日、其間大阪に山田を訪ひ、共に奈良に至りぬ。京都にては阿兄の家に泊したり。》
《大阪の四日は、友あつて誠に楽しかりき。大阪は友なくして止まり得べき所にあらす、鼻つく如き街路に黄塵の香を嗅ぐは望ましき者にあらざればなり。友と肩を並べて古城の辺りを逍遥せし時の景色は今も忘れず。暮色蒼然として深濠わづかに水面の光りをみとむべし。石垣の上なる老松の梢の、暮れなんとする葡萄色の空似黒くはえし様、いひしらず美はしかりき。夕と夜は二人して多く屋上の観火櫓に上り、雲と星とを語りしこと多し。雲と星とは何処に行きても我が慰めなり。》
《住吉の浜は松緑に波静なる所なりき。四天王寺の塔よりは、故郷の空打ち望みて、懐しき思に翼なき身をかこちぬ。奈良は清浄の地なり、閑静の地なり。我れ之を愛す。命あらば君と行く時もあらん。千年の古刹法隆寺の境内、風鐸の音ただ松籟の声に和する静寂の趣きは我が心をひくこと多かりき。東大寺の大仏も見たり、興福寺も見たり、春日神社にも行きぬ。一々あげんはくだくだし。三笠の山の中腹を、緑なせる草の中にかけりし鹿の、飛ぶが如くにして、忽ち春日の森の木立のひまに見えずなりし様など、奈良ならではと思ひぬ。》
《比叡の山には奈良より帰りて後登りぬ。・・・この夕書あり、我が落第を報じ来りぬ。再び東都の人となりしは十四日なりき。》

・書簡より
山田又吉から岩永裕吉へ
明治37年7月14日
《安倍と法隆寺、斑鳩宮、夢殿、金堂、太光寺、奈良の春日、三笠山、大仏、法華堂、二月堂、三月堂、手向山、博物館、興福寺の南円堂、金堂、五重塔を経めぐつた。所として面白からざるはなく逢ふ人毎の顔にも古の俤を認めるといふ風で実に嬉しい一日であつた。鹿、子供、日傘、森、青葉、感興を引き起した事共が頭に残つて居る。殊に博物館の古仏は買つた写真を其後眺めては思ひ出して喜んで居る。》

・高橋里美「ケーベル先生の想ひ出」より
《ただ私達のクラスでは、亡くなつた山田(又吉)だけは例外で、先生に傾倒することの深かつただけ、よく先生を訪問してはホメロスなどをおそはつてゐた。》
・小山鞆繪「先生に対する追想」より
《体系が先生にとつて何であらう。形式的要求を除けば内容に於てはかしこの信仰の中に於て安息所を見出して居るのである。多分山田君から聞た事と思ふが先生は Oh stupid philosophy! と云はれたとか。》

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