『評伝中勘助』覚書(35) 中学時代

・『鶴の話』所収「随筆」より
《私が中学へ通ふじぶんには大親方の家がちやうど道筋にあつたので時どき使ひの役をいひつかつた。川つぷちの草地を前にした閑静なところに植木屋と臼屋と米屋が並んで、その米屋のシャモが五六羽植木屋のけんねん寺垣にそうた溝の水をのんでることがあつた。渋く凝つた羽色のシャモが天を仰ぐやうに頸をのばし、ちよびちよびと嘴を動かして水をのみこんでるのが戦勝を祈つてでもゐるやうにみえてをかしかつた。門をはひると飛び石、燈籠、手水鉢といふ型のごとき庭で、松、どうだん、もつこくなどところせまく繁り、商売がらさすがに手入れが行届いてゐた。臼屋は大親方の身内とかいふことで、見たところ三十五六の無口で堅さうな人が小僧ひとりを相手にこつこつと臼を造つてゐた。動力も機械もない頃のこと、大きな欅の切株を特殊な鉞(まさかり)でくりぬいてゆくのだが、それは万事悠長なその当時にあつてさへなんとなく仙人の話を連想させるほど時間を超越したもので、しかし倦まず撓まず仕事場のこつぱに埋もれてやつてるうちに通学の私たちが焦れつたく眺めるほどでもなくいつか新しいすべすべの臼ができるのだつた。なくなつた親方はたしかそのじぶん養子にきた人で私よりは幾つか年上だつたが、私にしてみればやはり自分がぽつんと後に残つたやうな心もちだ。》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?