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高級食パン

 近所に焼き立てパンのお店ができた。
 一本1000円、高級食パン専門店である。

 普段私が買っている食パンは、一斤98円の八枚切りだ。

 毎朝一枚づつ焼いて、コーヒーと一緒に朝ごはんとして食べている。
 毎朝一枚づつ食べて、日曜の昼にフレンチトーストを作って食べる。

 私は一週間で食パンを一斤食べるのだ。

 一本は二斤分、とても食べ切れそうにない。
 一本で十斤分、とても食べるのに勇気がいる。

 いつか食べたい、憧れを抱きつつ、店の前を通り過ぎる。

 オープンしてしばらくは、店の前に人の列が絶えなかった。
 オープンしてしばらくは、昼過ぎに品切れののぼりが立っていた。

 いつか食べたい、いつか…食べられるだろうか。

 オープンしてずいぶん経ったころ、長い列を見かけなくなった。
 オープンしてずいぶん経ったから、物珍しさが無くなったのかもしれない。

 いつか食べたい、そろそろ、食べられるかもしれない。

 店の入り口に、ハーフサイズ販売はじめましたと看板が出た。
 店の入り口で、看板を見つめて、しばし考える。

 ハーフサイズなら、食べられるだろう。
 食パンのカットもしてもらえると書いてある。
 高級食パンと普通の食パンの違いが知りたい。

 98円が500円になると高いが、一食500円と思えばお弁当代と変わらないはず。意を決し、長年憧れ続けた高級焼き立てパンのお店のドアを、開けた。

「いらっしゃいませ!」

 ふ、ふぅわぁああああああっ……ふわっ!

 焼き立てパンの、香ばしくて甘くて、ほのかに田舎っぽくて…、素朴なのにやけに澄ました香りが、私を包み込んだ!!!

 ……ちょうど、パンが焼けたらしい。
 柴犬色をした、長方形のパンが、オーブンから取り出されて棚の上に並んでゆく……!!!

「今ちょうど焼き立てです!!アツアツのを箱に入れてお渡しできますが、いかがですか!!!」

 湯気の上がる食パンが、アクリルの向こう側に並んでゆく。
 隔たり越しでさえ、こんなにも私に芳醇な香りを届ける食パン。

「あの、ハーフサイズって…。」
「すみません!焼き立てはやわらかいので、半分にカットできないんです!でも…焼き立て、本当においしいんです、できれば、こっちの冷えてるのじゃなくて、焼きたて、食べて欲しいです!」

 売り子さんの後ろの棚に並ぶ、袋に入った…ハーフサイズの食パン。

 彼らは、私を骨抜きにするような香りを…放っては、いない。
 彼らには、私をくぎ付けにする、強烈なビジュアルは…ない。

「焼き立て、か、買います!!!」
「ありがとうございます!!」

 代金を支払い、上部が解放された箱の中に収められた食パンを受け取る。

「こちら、おうちに帰ったらアツアツのうちにぜひお召し上がりください!!包丁でカットとかしないで、真ん中で真っ二つに割って、中の白いふわふわの所を熱っ!熱っ!!って言いながらむしって食べると本当においしいんですよ!!バターをのせてとろとろにとけたところをパクっといってもおいしいですけど、なにもつけずに食べてもめちゃめちゃおいしいんです!冷めたらレンジでチンするとふわふわになります!食べ切れなかったら冷凍してもいいですけど、たぶんあっと言う間に食べれちゃうと思います!!あ、食べ方の紙入れときますから、参考にしてください!!」

「は、はあ…ありがとうございます。」

 焼き立てパンに負けないくらい熱い店員さんの言葉を受けて、帰宅した。

 普段使いのマーガリンと、料理用のバター、ジャム、コーヒーを準備してテーブルの前に座り、箱を開けて黄金色の物体を真っ二つに、割った。

 もふぁっ!!!

 薄い湯気と、焼き立てパン特有の甘い香り!

 パラパラッと、茶色い耳の部分からオーブンの熱を受け止めた鎧の一部が、はがれた。

 真っ白な、パンの…本体?
 きめ細かな繊維?
 未だかつて一度も目にした事がない、高級パンの内臓部分に、指を、のばした。

 ……熱い!
 ……やわらかい!!
 ……怖い!!!

 これは……本当に、食べものなのかと、驚いた。

 指先を溶かさんばかりの熱を持ち。
 わずかな力でつまんだだけなのに形を崩し。

 さあ食え今食えすぐに食えと、香りが鼻粘膜細胞の隅々にまで襲いかかる!

 恐る恐る、一筋の白い情熱を口に運んだ。
 秒で、口の中で、とろけた。

 ああ、この、熱。
 ああ、この、繊細。
 ああ、この、儚さ。

 ……はにかみながら、おずおずと目を合わせて、恥ずかしそうに微笑んだ美少女の姿が脳裏に浮かんだのは……なぜだろう。

 白い果肉をつまむ手が、止まらない。

 このパンの、一番うまい部分……白。
 このパンの、一番魅力的な部分……雲。
 このパンの、一番魔性の部分……芯。

 美味い、旨い、ウマくて……たまらない!!

 止まらぬ指先、開く唇、噛む歯に飲み込む喉、喜びはしゃぐ胃袋よ!!!

 バターを一欠片乗せると、もち肌の上で瞬く間にとろけて…真っ白な大地に染み込んだ。

 それを……、躊躇うことなく、一気に!
 我が身の中に取り込むために!
 口いっぱいに、頬張る!

 ああ……、なんという、至福。

 口の中に広がる、甘くて切ない恋の物語。
 口の中を占領する、濃密で魅惑に塗れた大人の物語。
 口の中が歓喜する、魂の再出発を約束する壮大な物語。

 気がつけば、いつもならフレンチトースト一枚で満足しているはずの私の胃袋が、一斤分を収めてもなお、貪欲にソウルオブブレッドを求めて……混乱に陥っていた。

 このまま、欲望を解放し、身を破滅させるわけには……いかない。
 この魔性の化身を取り込みすぎて、内蔵を疲弊させ、急転直下の剛速球で体内を巡らせてトイレで涙を流すわけにはいかないのだ。

 私は、涙を飲んで、パンの箱に……ふたをした。

 夕方、パンの説明書に従い、レンジを使ってみたら、また……少女の面影に出会うことができた。

 高級食パンの、実力を、思い知った。
 焼き立ても、冷めてからも、うまいのだ。

 それどころか。

 すべて食べて、実物が消えてしまっても、うまいと思うのだ。
 幻を思い浮かべても、うまかったなあと、しみじみ振り返ることができるのだ。

 その身をすべて私の中にトロかしたというのに、強烈な印象があとからあとから溢れてくる。

 ……なんという、恐ろしい、食物。

 高級食パンの本気に魅了されてしまった私は、もはや振り回されることしか……できない。

 ……そして、今日も、私は。

「いらっしゃいませ~!」

 この身を膨張させながら……、通い慣れたパン屋のドアを開けるのだった。

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