勤続13年ベテラン学生の期末試験勉強時の脳内

過学習的なしけんべんきょと汎化性能向上志向なしけんべんきょを言語化していく。

試験を行うにあたって、試験で達成したい本来の目的は講義で扱った内容を"理解"する・させるというものだと思うが、実際に行えるのは当日に問題をいくつか出してそれに対して時間内に何らかの返答をよこしてもらい、その結果を吟味するという作業なので、本来の目的とは完全に一致させられるかというと難しかったりする。

簡単な例をあげれば、こういう試験をしますよ、こういう問題を出しますよと教員がアナウンスして、学生がその問題だけ答えるように訓練してこれば、その試験で測れるものは講義で扱った内容を理解するとかそういうのだけじゃなくて、単に教員のいうことをきいてそれ通りにやってくるかどうかみたいな色合いの方が濃くなる。もちろん、そういうことをやっても"理解"を促進する効果はあるし、白黒ハッキリするものではない。そもそも、理解とはなんじゃろほいという話をハッキリさせないとここはハッキリさせることができない。どちらかというと、理解度を損なうというよりかは、対象のテーマを理解してもらうという作業に一定の義務感というか忠誠心というかそういうのをadditionalなものとして含めてしまっているものというのが正しいかもしれない。

一方で、試験の範囲とか目的とか、何を出すのかについて抽象的なテーマを提示するだけでとどめておいて、広い範囲で根本的な理解を問うような問題設定をすれば、講義で扱った内容を"理解"してもらうという本来の目的に近いものをより含められる。と俺はおもった。これは明確に言うのは難しいので、固定の課題を出してそれだけに対策してくるようなテスト、ではない方向性のものと言っておきたい。もちろん固定の課題の設計が上手であればその限りではないので、明確な線引きは無理だけども。

っていうてきとうな語りはいいんだが、俺がまとめたいのはこの15年くらいにも及ぶ学生生活の中で身につけた、過学習的な試験勉強とそうでない、より汎化性能を意識した試験勉強のやり方の違いを見ていきたい。

過学習的な試験勉強というのは、先にも言ったように、どちらかというと近視眼的なモチベで、試験の点数を取るために試験勉強をするみたいな営みのこと。テストで出るから、課題でこういうのでてたから、先生が言っていたから、いい点数が取りたいから、というようなモチベで勉強して、点数をかっさらっていく志向の考え方の総称である(適当)。

これと反対に、汎化性能の向上を試みて試験勉強するというのがある。こちらは、上で言ったようなモチベで点数を取りに行くとかそういうのではなくて、あくまで講義で扱われた対象・テーマ自体の理解を最優先に勉強するという志向の思考の総称(捏造)。そこには、確かにこういうやり方で対策しまくれば一旦試験の点数は上げられるのかもしれないけど(丸暗記するからレスポンスが早くなる、等)、それは本質ではないから、ゆっくり時間をかけてでも自分で言葉を紡いで回答できるように勉強するよ、みたいな試みの方向が含まれる。つまり、点数の最大化を狙わずに理解の最大化を狙う。

毎回、試験が近づくたびにこれのどちらにどれくらい振ろうかみたいなことを考えて挑戦しているわけだが、今回の第二学年後期の試験はほぼ後ろ側に振ってやってみた。ただし、これらは明確にくぎれるものではないので、どの科目においてもある程度は過学習思考やりつつ、汎化性能をなるべく高められるように、みたいなやりかたをする。すると、どういう感じになるかというと、まず試験がそんなに嫌いではなくなる。なぜなら、成績にこだわらなくなり、好きなようにやれるからだ。また、科目自体の理解も深まる方向性にいきやすい。なぜかというと、問題に対して一対一で答えて行くだけではなくて、そもそもこの科目はなぜあるのか?とか、どのような問いを答えるためにこれらの概念は用意されているのか?みたいな、教科書を自分で書き直してみようとする、みたいな方向性だからだ(実際に教科書を書くとはいってない)。また、汎化性能を極限まで高める方向に走ると、試験で単位を落とすみたいなこともかなり起こりづらくなるので、単位落としたーみたいなイベントもあんまり発生しない(はず)。((汎化性能がイメージしづらい方に、汎化性能の例をあげる。英語ネイティブはTOEC990点取れると思うが、彼らは試験対策をしなくてもそれが取れるはずだ。ネイティブみたいに、試験に対して特有のことをせずに、純粋にそこで測ろうとしている能力(英語)だけで戦おうというのが汎化性能の方向性になる。一方で試験対策としてTOEICの過去問・単語帳・問題集などを買って英語そのものだけでなく試験用の勉強をする、というのが過学習の方向性になる。測るのは英語の能力であるものの、本質的にはそこに関係ない試験そのものに対する能力を練習して点数を上昇させるために身につけるという感じ。別に、そこにどちらがいいとかわるいとかはまったくないし、明確にくぎれるわけでもない。))

100%汎化性能志向になると、超高得点みたいなのは狙いにくい。いや実際は狙えるが、時間対効果が非常に悪い。もちろんその試験がどういう性質かにもよるが、過去に出題された課題をそのまま出します、のようなものになると、明らかに課題丸覚えしたほうが対策としてははやいだろう。

自分の性格からすると、上までのメリットを見ればじゃあ全部その汎化性能を向上させる志向の方で100%行けばいいじゃんと思う。内容が深く理解できるんだし、絶対そっちでしょ、っていう。ただ、デメリットの方で上げた、時間対効果の悪さが、汎化性能志向の学習方法を難しくする全ての原因になっている、とわいは思う。ようするに人間がものを覚えて慣れて理解するのに時間がかかるっていうところにすべての原因がきてるわけだ。だから、多くの場合試験勉強っていうと試験範囲の問題集解いて、解き方、用語を覚えて、試験当日に頑張って、二日たったらすべて忘れようみたいな感じの営みになる。これは試験で点数を取るという目的においてはすごい合理的でかしこいから、いいことだ。ただ、こういう性質のものなのに、それに成績とかをつけてその結果をすげーありがたがるのは不思議な習慣ではあるなと思う。ただこれも一概にはまったく言えなくて、どんな試験なのか、どんな試験内容なのか、どういう期間が用意されてるのかとかでまったく変わってきてしまうので一般論はいいづらい。個別の試験ごとに言わないとどうしようもないとこある。


話はかわって、

お仕事とかするなかで、実務的な知識とか、研究とかする中で使う実践的な知識とかいうものを身につける過程においては(えくすぱーととして)汎化性能の方の割合を100%に近いくらいにしてもよさそうだとおもうので、それをやるために結局何するかってとこをメモしようず。

端的に言えば、その題材に出てくる用語一つ一つに対して、(何も見ずに)説明ができて、それらの関連する用語のつながりについて説明することができる。みたいなところを目指せばいいと思う。で、そのためにどうするかというと、いい教材、いい教科書、いい動画などを見つけて、それを読んで、再生して、情報を受け取って。そしてそれを一旦読むのをやめて、停止して、自分の脳みそだけで情報を再構築するっていうところを目指すといいと思う。それだけだと、実践的な問題解くみたいなところが不足しがちだったりするので、自分でこのテーマに対してどこを問うてみるか?どういう問題が考えられるか?みたいなところも考えて、作ってみて、自分で答えを出すみたいな営みができるとなおよしだと思う。例題をつくるみたいな。まあ、御察しの通りとても時間がかかりそうだということがわかる。でも、脳みそがあれなんで、こういう風にやっていくしか結局のところないのさ・・・。

こういうふうな知識の詰め込みかたすると、たぶんいわゆる相対的に理解が深い人みたいな感じにはなれる。だからなに?とかそういう話はもちろんある。そもそも試験ってなんなの?なんで試験してんの?といった疑問も当然浮かぶ。CMのあとで回答します。

ただ、わっしは後者の汎化性能向上型の方が好きなので、そっちでやっていく人生にしようとおもっている。前者が好きな人は、たぶんそういうコンペティションが好きなんだと思う。

じゃあ過学習志向型がわるいのか?っていうとまったくそんなことはないと思う。だが個人的には好きではない。過学習志向型でも、当然ながらその対象となるテーマには触れて勉強するのだから、理解を深める効果はあるし、別にその点はまあまあいいんだと思う。ただ、正直じゃないところがあまり好きじゃない。こういう風にやれば理解できるようになるよ、ただそれと同時にこういう風にやるっていうやり方自体も真似してね、みたいなところとか。実際には従順さみたいなのを暗黙に要求しているのにそこについてフェアに公に触れずに、なかったことのようにしたままにしているところが少々個人的にきもちわるい。第一の目的に科目の理解が入っているとするなら、第二の目的に命令に従うことが入っているはずだけど、第二番目については触れずに、第一の目的だけ達成しようとしてる風になっているところが、もしも700万年前にアフリカ大陸に生まれていたら一人で中東の方を開拓しにいっただろう系の人材としてはちょっと好きじゃない。命令を聞いてくれって一言でもいってくれればいいんだけれど、隠されるとちょっと。

ただ、こういうのもなんだが、じぶんは勤続13年なのでいろんな学生を見てきたわけだけど、汎化性能志向が5割以上(当社比)占めてる学生みたことないんだが。ついったーではあります。

あなたを記憶します