見出し画像

シリーズ日本アナウンサー史③式典中継の第一人者 松田義郎

日本の放送は大正から昭和へと移り変わる節目の時期にあたる1925年に産声を上げたため、多くの式典中継が行われた。
例えば、大正天皇の御大葬、昭和天皇即位式、陸軍大演習、観兵式などが挙げられる。

式典中継の先手を取ったのは名古屋放送局であった。1925年10月31日、第三師団練兵場から天長節の祝賀式を放送し、翌年8月にも名古屋市内の御園座から「JOCK一周年記念演芸大会」を放送している。

「うちでも中継放送をやりたい」。東京放送局は焦っていた。
大正天皇が崩御されたのはそんな時のことである。当時放送部長であった矢部謙次郎は「この御大葬の様子を国民に伝えることこそ放送の使命である」と宮内省と交渉した。当初宮内省は難色を示していたが、矢部の熱意に負けて遂に首を縦に振った。

担当したアナウンサーは松田義郎。
「霊轜(れいじ)の進みにつれて、沿道堵列(とれつ)の億兆赤子は声をのみ、襟を正し、再び帰りきまさぬこのご行幸にひとしくうなじを垂れて涙にむせびました。霊轜緩やかに進みゆけば、黒漆の轍のきしりは一回転ごとに耐え難き哀音(あいおん)を人々の胸に刻み、惻惻(そくそく)の情、ひとしお深く沁(し)みわたりました」

葬列が赤坂青山御所付近を通過する様子を情感豊かに描写したこのアナウンスは、実はスタジオで行われていたというから驚きである。
青山御所に据えたマイクから葬列の音を拾い、その音と現場からのブザーの合図に合わせて多田不二(詩人としても有名)が作成した原稿を読んでいたのだ。
松田義郎は東京出身で、低音が響く重厚なアナウンスを得意としていたという。学究肌の人物で、このアナウンスをするにあたっては御大葬の予行演習を入念に取材し、葬列が通るポイントごとの状況を細かく紙にまとめていた。
現在でも、駅伝やマラソン中継などでは、メインの実況アナウンサーは中継車が撮影している映像をスタジオで見ながら実況しているが、モニターなど無かった時代にこれだけの“想像実況”が出来たのは松田と担当ディレクター多田による準備の賜物であったと言える。

その後の観兵式や陸軍大演習などの実況中継も松田が担当した。
ドイツの飛行船「ツェッペリン伯号」が来日した時の中継や、東郷平八郎元帥の国葬中継も松田によるものである。

初代式典アナウンサー松田義郎の名アナウンスを1929年4月29日、天長節の観兵式から紹介したい。
「ただいま、式場に参列の諸隊は、近衛、第一の両師団中、東京に屯在致しまする十八個団体、総員一万五千名でありました。諸兵指揮官、宇垣一成大将最右翼に、近衛師団長、長谷川中将その左方約二十歩に位置し、近衛歩兵四個連隊は、式場東側に、歩兵第一、第三連隊、並びに騎、砲、工、輜重の格特科隊は、その左に整列し、軍装美しく、威儀を正して、陛下のご来臨をお待ち申しております。隊列に南面して式場北側中央には、金色燦然たる菊花のご紋章を浮かし出した白色方形テントに、清楚な玉座がしつらえられてございます。」
礼装に身を包み整列する陸軍将兵、金色に輝く菊花紋章が目に浮かぶ。
評論家の吉本明光は後に「儀式の放送は松田君が第一人者だ」と評したと言う。

毎朝モーニングを着て出勤し、放送の前には「今日もご機嫌宜しく…」とマイクに向かって最敬礼した松田義郎アナウンサーは、1936年11月29日午後7時のニュースを最後に愛するマイクの前から姿を消した。アナウンサーとして過ごした約10年という歳月は、この仕事を天職と思っていた松田にとって余りにも短かった。
その後、前橋放送局長や名古屋、札幌放送局の業務課長などを歴任し、1969年にこの世を去った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?