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シリーズ日本アナウンサー史②もう1人の第一声 初の番組MC 大羽仙外

黎明期のアナウンサーの中に報知新聞の元嘱託記者であった大羽仙外という男がいた。
1924年10月25日~11月9日まで、東京上野の池ノ端で「無線科学普及研究会、無線電話普及展覧会」が催された。報知新聞社企画部長の煙山二郎(後に東京放送局理事)がプロデュースして「無線電話」として出品されたのがラジオである。
「当時の人は『なんだ針金の力を借りずに話が伝わる』『そんな馬鹿なことがあるか』と言ってね」 と『放送文化 昭和42年1月号』のインタビューで徳川夢声が当時を振り返っている。
電線を用いずに話を伝えることができる“不思議な箱”への民衆の関心は極めて大きかったようだ。

大羽はその時のラジオ実験放送でアナウンスを担当していた。
第一声と言われる京田武男によるアナウンスより5ヶ月も前のことであり「京田と大羽の元祖争い」と言われるのはこのことである。
報知新聞から東京放送局に移ってきていた煙山次郎が、同じ報知新聞の大羽をアナウンサーとして東京放送局に呼び寄せたのだ。

元牧師であった大羽仙外アナウンサー。1つ1つのアナウンスに工夫をこらし、まるで教会で多くの人に教えを説くように、親しみをもってリスナーに語り掛けた。
「ただ今、スタジオの窓から品川の海をみますと、月光冴え渡り、実に静かな夜でございます」 と情景描写を入れるなど、情感のこもったアナウンスが得意だった。
また、進行の手際の良さも評判であった。日本初のバラエティー番組司会者だったと言えるかもしれない。
言葉選びが巧みで、昭和初期に放送された『五目はやり歌』の中で彼の口から発せられた「唄は世に連れ世は唄につれ」という文句は大変有名である。このように、大羽は情感溢れるアナウンスを志し、生真面目なアナウンスを志した京田とは対照的であった。

1928年に一時退職するも、1930年には大阪放送局のアナウンサーとして復帰。しかし大阪放送局ではわずか1年で別の部署へ異動している。
戦後、大阪放送局を退職し千葉英和高等学校を設立した。
放送局勤務の経験を活かして視聴覚教育の先駆者となり教育者としても名を残している。

開局当時の東京放送局のアナウンサーは、第一声を飾った京田武男、そして前述の大羽仙外に、熊崎真吉、桐野音次郎を加えた4人。
「ノッポの熊さん」と呼ばれて親しまれた熊崎は株や経済の専門家であった。開局からわずか1年後の1926年の夏に肋膜炎を患い、その翌年惜しまれてアナウンス職から離れた。
桐野は、数ある応募の中から選ばれてアナウンサーとなった。なぜか天気予報を3回放送しただけで異動となっている。

こうして見ると初代アナウンサーの面々は、早い段階でアナウンス職を離れているのが分かる。しかし、テキストも経験もなく手探り状態の真っ暗闇に、明治生まれの4人の男たちは小さくも力強い灯りをともした。

日本にアナウンサーという職業が誕生したのである。

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