「是々非々」という言葉の曖昧さに惑わされていませんか?

「是々非々」という言葉の曖昧さに惑わされていませんか?

「是々非々」は「ぜぜひひ」と読み、「一定の立場にとらわれず、よいことをよいとして賛成し、悪いことは悪いとして反対すること」という意味がある言葉。
つまり「いいことや正しいことは認めて賛成し、悪いことは悪いと言って反対し、公平な立場で物事を判断する」という意味になるのかな。

「公平無私(一方に偏ることなく平等で、私心をもたないさま)」とか、

「公明正大(私心をさしはさまず、公正に事を行うこと)」とか、

「厳正中立(厳しく公正を守り、一方に偏らない立場を守ること)」など、

と似たような意味があるとされているようです。
また、反対の意味を持つ言葉として、

「専断偏頗(勝手に正しいと思い込み、考えが偏っている様子)」とか、

「不正不公(正しくない上に不公平なこと)」など、

があるらしい。
こうした説明を読むと、「是々非々」という言葉が如何にも「正しい思考」のような気がするのですが、ホントにそこには「正しさ」があるのでしょうか?

言葉の意味を探求するときに、いつも外国語にするとどうなるのかを調べています。
例えば、「是々非々」の直訳的に当てはまる英語やポルトガル語は聞いたことが無いので、存在しないのではないかと思う。

欧米では、そもそも個人主義・自由主義が日本よりもしっかり根付いていて、事の良し悪し、自分の行動の善悪を個人で判断するのが基本なので、自身の存在を別のところに追いやって考えるという発想が無いのだと思う。
もちろん、思考のベースには、宗教があったり、イデオロギーがあったりしている。
多分、彼らには、「公正=中立」という式は成り立っていないのだと。
若いころ、国籍の違う外国人同士で「平等(equality)」とか、「公平(fair)」というテーマで語り合ったことがあるのだが、そんな基本的な言葉でさえ、考える意味に大きな差があり、驚いた記憶がある。

「是々非々」という言葉は、「正義と悪」と同じように、結局、モノの見方でどっちともとれる(どっちも正解の可能性がある)言葉でしかない。
結局、自らの主張を正当化するための言葉のひとつなのだと感じています。

「是々非々で議論をすすめましょう」って言っても、発言者の思考には様々なバイアスがかかっていて、それを完全に取り除くことなんてできない。
「公正」に考えているつもりでも、その「公正」は、「絶対的な公正」ではないのだ。

じゃぁ、どうするの?って話だけど…。
やはり、「自分自身のスタンダード(基準・標準)を確立すること」と他人のスタンダードを認める「多様性に寛容な思考」を身に付けるしかないのだ。
そして、その正しさは、現実と歴史が評価してくれると思うしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?