「こけし(小芥子)を正しく理解するために」 清塚隆夫
「こけし」は「子消し」である説『こけし発生の謎―闇の中の間引き供養考』(2006年)を批判した本『こけしの真実―子消し→こけしは真っ赤な嘘―』(平井敏雄著・2009年)が多くの誤りに満ちているため、平井氏への反批判<「こけし」の正しい理解のために>(2010年)として載せたホームページが20019年に終了してしまった。しかし、その後も平井氏の誤説がまことしやかに平井氏の”信者”によって、いまでもネットに流され続けている。
そこで再度この問題を「こけし(小芥子)を正しく理解するために」として取り上げたい。
平井氏『こけしの真実』の主な主張とその誤りは、次の通りである。
1.<「こけし」という呼称は昭和になってできた>
⇒ 全くの誤りである
【事実】
* 明治24年『うなゐの友』に「コケシバウコ」大正3年『玩具の話』に「コケシボウコ」というコケシの文字と絵が載っている。
*仙台に、こけしの店「小芥子洞(こけしどう)」ができたのは大正10年である。
*「仙台小芥子会(こけしかい)」ができたのは大正12年である。
これほど明白な事実がある。平井氏のこけし研究は第一歩から誤っている。
2.<昭和15年に「こけし」という呼称に統一された>
⇒ 間違いである
【事実】
昭和15年7月27日 東京こけし会鳴子大会で決められたのは
1.こけしの保護助長と、その具体的方法を考究する事
2.こけしの文字は仮名書きに改める事
この2議題である。
東京こけし会の『こけし記念号』(昭和15年秋)に、このことが載っている。懇談会の各会員の発言内容を見ても「こけし」という呼称に統一された記述は一切ない。
かな文字(「こけし」「コケシ」)を使うことを決めたのである。色々な漢字でも、呼び名はずっと以前から「こけし」である。各地に「こけし会」「こけし展」「こけし座談会」「こけし頒布会」が行われ、こけし以外の呼称を見つけるのは困難である。「こけし」だけが普及した正式名称となっていた。平井氏は「こけしという呼称に統一された」と主張し、さらに<「こけし」という呼称は昭和15年に制定された>(『こけしに真実』P103)と、日本語を二重に捻じ曲げて“捏造”してしまう。自分の言葉さえ“統一”できないで分裂している。(ネットでも10年も経って、やっと「呼称が統一された」との表現がなくなりつつある。日本語を正しく理解すれば当然のことである。)
3.「子消し」という表現はそれまで書かれていない。だから真っ赤な嘘である。
とこれが平井氏の主張である。“大学名誉教授”の主張とは到底思えない。
書かれてないから嘘であるという理屈は自己矛盾である。誰も書いていないことから独創的な自説・初めての説を導き出すことが学者の努めであろう。平井氏の理屈では、初めての説を書いた人は全員が“真っ赤な嘘”となってしまう。
平井氏は「子消し」を退治するかのように「子消しという説がある」「子消しという話もある」との伝聞を紹介した多くの人たちをも“真っ赤な嘘”と非難する。「聞いたこと」まで“真っ赤な嘘”と攻撃するとは、批判者としての冷静さを完全に失っている。
平井氏の『こけしの真実』には驚くほど多くの誤りが上記のほかに、まだまだある。
*木地師が自分の幼子のために「こけしの位牌」をつくったことがあるという記事をみて「こけしとは言いがたい」と強弁する。菅野新一氏が当時木地師本人に「こけしの位牌」であることを確認したことをも平井氏は否定する。位牌とか供養に拒絶反応する。
*なぜ「こけし」という呼称になったかを、平井氏は方言「こげす」と「おぼこ」から「こけし這子」となったとする。意味不明で、説得力などまるでない。
漢字「小芥子」の本当の意味
私は『こけし発生の謎』で、間引きの歴史、人口問題、禁止令、飢饉、木地師氏子狩り、温泉湯治等の時代背景を検討した結果、「小芥子」は「小さなアクタゴ」と読み解いた。間引かれた子は役に立たない子「あくた=ごみ」のような子とされた。こけしは「でくのぼう」とも呼ばれていたとの記録も残されている。「でくのぼう」は役に立たない者の代名詞である。「こけし」=「子消し」=「小さなアクタゴ」=「でくのぼう」が「間引き」でつながっているのである。
江戸時代、芥子人形、芥子雛は人気を博し禁令がでるほど話題になった。この「芥子(けし)人形は、コケシよりはるかに小さいものである。芥子人形が先行した時代、それより大きい「小芥子(こけし)」が“小さなけし”という意味で名付けられることはない。
中世の本・辞典『拾芥抄(しゅうがいしょう)』『塵袋(ちりぶくろ)』の芥(あくた・ごみ)塵(ちり・ごみ)を使用した題名には、不要とも思える言葉にも本当の意味が含まれていることを拾い上げてできた、深い意味を込めた、歴史的に貴重な書物である。
漢字「小芥子」もその深い意味を理解しなければ何もわからない。
“小さなけし”では意味をなさない。「小さなアクタゴ」であり「子消し」なのである。
それでも、漢字「小芥子」のほかに「木形子」も使われるようになった。しかし、そのまま読めば「キガタコ」とか「コケイシ」と読め、「コケシ」と読むのは、かなり苦しい。辞書には漢字「小芥子」が使われていた。これが正しい。
物の名前に、漢字で表示しないものはほとんどない。漢字には“意味”があるからである。漢字ではない「こけし」では本来の意味を知ることができない。
*「消す」という言葉は人気歌舞伎の上方の言葉で「遥か彼方の東北の貧村で使われたのはどう考えても無理」と平井氏は断定する。
人も、物も、言葉も山↔海、東西南北、“歴史の遥か昔から”相互に交流があった。言葉が地方の貧村にまでたどり着かないという歴史認識の浅さ、偏見が見て取れる。
*平井氏は「こけしは贅沢品」と述べる。全く理解不能、常識外の認識である。こけしは、庶民が買い求めるもので決して贅沢品ではない。“贅沢品ではないこけし”が禁令とされた意味を全く理解できていない。・・・等々ほかにも多くの誤りを2010年に指摘した。
私が『こけし発生の謎―闇の中の間引き供養考』(文芸社)で取り上げた
1.「やみよ」という名
2.こけしが禁制とされたのはなぜか
3.氏子狩りにこけし産地が避けられたのはなぜか
4.こけしの頭の乙の字
5.伝説―人柱は事実であったのかー
6.こけしの菊模様
7.漢字「小芥子」の本当の意味
8.なぜこけしは東北だけなのか、
という
こけしの「謎」を“間引き”の時代背景から解明を試みたのは2006年のことである。
なぜ「女の子だけ」なのかをはじめ、いくつもの謎解きが「間引き」から説明可能となった。しかし“専門家”平井氏は「子消し」説を批判するばかりで、重要な謎の数々には「ばかげている」として全く検討さえしない。謎を解明することなど出来るはずもない。
その理由は、子消し説が“今までどこにも書かれていない”とか“突然出てきた説”であるとして 初めての説は真っ赤な嘘と決めつける。自己矛盾の論理である。これでは独創的な考えなど出せるはずもない。「独創=初めて」だから「突然」なのだ。
13年以上経っても、新しい見解は見当たらず“謎”は解明されず、謎のままとされている。
それは、「子消し」説を批判する人たち“専門家”も「こけしが東北の風土に適していたから」とするものの、なぜ東北の風土なのかの「必然性」を究明していないままである。それ以前に「子消し」と書かかれていない「突然出てきた説」だから“嘘”であるとして、「間引き」に結び付けて考えるとはもってのほかという思い込み、偏見からきている。これでは氏子狩りが、こけし木地師のムラをなぜ回避したか等、多くの謎はいつまでも解明できない。
すでに昭和43年、土橋慶三氏が「こけし研究も素朴な美の追求から人間の苦悩を追究する段階に移行しつつあり、その中にこそ本当の美を発見するのだという発想と鑑賞方法の新しい段階に達した」と述べているが、いまでもこの言葉に耳を傾けない状況が続く。
我々は“死ぬこと”を「息を引き取る」と表現する。「息」は「生き」(生命・命で)あり、「引き取る」は引き受けることである。誰が引き取るのか。それは彼岸の阿弥陀仏であろう。一方、此岸では残され、生きている者こそ引き受け手となる。これが「息を引き取る」本当の意味だと私には思える。間引きされた幼子の息(生き・命)を引き取り、引き継ぐのは母親である。そして、その母親の無念の思いを掬(すく)い上げたのがこけし木地師であった。
時代、生活、風習を含めた歴史認識と謎の解明が、少しでも進むことを期待したい。
<「こけし」の正しい理解のために>を2010年に発表したが、以下に要旨を再度掲載するので、内容を確認検討して頂けたら幸甚です。『こけしの真実』という”不実“への詳細な反論です。平井氏”信者“が自分で、せめて「原典」を調べることをお勧めしたい。
庶民への心優しい理解者、それがこけし木地師であったことを忘れてはならない。(2020.2)
「こけし」の正しい理解のために
平井敏雄氏の『こけしの真実』(金港堂出版)という本が昨年(平成21)出版された。
<「子消し→「こけし」は真っ赤な嘘>という感情的な表現が使われている。
平井氏は、自信と責任をもって出版されたと思うが、本の内容を検討すると「真っ赤な嘘」は根拠がないこと、「こけしの呼称は昭和15年に定められた」は間違いであること、『こけしの真実』は「真実」の中身はない等、そのほか、数多くの問題点を指摘できる。本の中で私の著書『こけし発生の謎―闇の中の間引き供養考―』が取り上げられているので、当事者でもあり、以下に批判の考えをまとめたものです。
問題点1(東北特有ということ自体が有力な根拠)の項
『こけし辞典』から東北特有ということ、『伝統こけしとその周辺』に書いていないということ、いろいろな説はあるが詳細な考察はできていないこと。ここから「子消しとは書いていないから、なかった。真っ赤な嘘である」との主張には、次の言葉を提示したい。「書籍を調べて書籍に見えぬから人柱などは全くなかった事などいふがこれは日記に見えぬから吾子が自分の子でないといふに近い」(南方熊楠「人柱の話」)
問題としているこけしの起源は、江戸時代とされている。だいたい物事の発生時には文献として残るものの方が少ないといえる。「書いてないから無かった」論では、最初に書いた人の説はすべて、「真っ赤な嘘」になってしまう。
問題点2 (用と起源)の項
弥治郎の一木地師が自分の幼童が亡くなったとき「木人形の位牌を作ったことがある」と引用して、平井氏が言うには「『こけし』とはかなり異なり、『こけし』とはいいがたいものである」とする。
『山村に生きる人びと』の菅野新一氏は久治に会い実際の「コケシの位牌」を見て、「供養のために作った」と確認している。われわれは今。本に載った写真を見ることができる。これは「こけし」である。それでも平井氏はこけしが供養や位牌と関係するものまで拒絶反応を示す。冷静な姿勢を初めから失っている。
問題点3 (東北地方以外でも「こけし」は作られたのか)
(なぜ東北地方だけで作られたか)の項
結局、「東北地方独自の自然・風土と文化とから生まれ育った」としている。事実そうなのである。だから「謎」とされていたのである。「東北独自の自然・風土と文化、独自の感性とは何なのか、そして、それがなぜ“こけし”を生んだのか」が検討されて、推論にしても、その必然性を示さなければこの項目は全く意味をなさない。それ以上のことは「書いていない」から検討も論証もしない。「仮説」を積み上げて真実に迫る探究心は、最初から放棄しているらしい。
問題点4 (昭和15年に「こけし」という呼称に統一)の項
東京こけし会鳴子大会での決議は次の内容である。「『こけし』の文字は漢字の当て字を絶対に使用せず、今日より仮名書きに改めること」この文章をよく読んでもらいたい。
それまでは「木形子」「木削子」「古け志」「小芥子」など人によりいろいろな漢字が使われていた。それでは不都合、困ったことが生じるので、仮名文字で「こけし」と表示することにしたのである。いろいろな漢字でもその呼び名は、発音は「こけし」である。「こけし」の呼称はそれ以前からすでに使われていた。明治、大正、昭和初期の書物には、名称は「コケシ(コケシバウコ)」「こけし」である。「こけし会」が結成され「こけし展」も開かれている。「仙台こけし会」と、「こけし洞」ができたのは大正時代である。
平井氏は次のように述べる。「『こけし』という呼称は昭和15年に定められた。」と、これは間違いである。「日本語」を理解できていない。呼称が定められたのではない。呼称を表記するときは「こけし」と仮名書きすることが定められたのである。
「こけし」という呼称が使われている昭和15年以前のものを示す。
・大正大正10年こけしの店「小芥子洞」 大正12年「仙台小芥子会」10年こけしの店「小芥子洞」 大正12年「仙台小芥子会」
・太治郎の注文書はがきに昭和7、13、14「こけし」とある。<「こけし手帖」創刊号>
・大阪高島屋「こけし展」開催 <3号>・昭和14年「こけし便り」発行<5号>
・儀一郎から石井氏あて昭和6年ハガキに「こけし」を使用
・大正13年「仙台小芥子会」より儀一郎に「こけし制作」を依頼<7号>
・昭和8年「郷土風景」に「こけし閑話」とある。<12号>
・昭和13年に日本郷土玩具会で「こけしの会」というこけしの頒布会<14・15号>
『鳴子・こけし・工人』西田峯吉 未来社
・伊勢の川口コレクションに「コケシバイコ 明治戌申五月」と書いたこけし」とある。
『羨こけし』深沢要(昭和13年8月)
・私は『こけし』または『コケシ』を常用している」とある。
・昭和3年『コケシ這子の話』天江富弥 昭和8年「こけし展」福岡九州日報
昭和9年「木形子夜話会」天満の野田屋・昭和10年『木形子談叢』橘文策・昭和12年「深沢コレクションこけし展」吉祥寺ナナン喫茶店・昭和13年
「縮写こけし頒布の会」昭和14年『こけしと作者』橘文策・・昭和12年「高島屋こけし展」、新聞紙上では「東北こけしの旅」を3回に亘って連載する。「コケシとえじこ」など。高島屋ではこけし頒布会、「こけし通信」も発行された。佐藤友晴氏の著書の中、大正6年木地組合ストライキ工賃表には「こけし・・1銭」が要求書の中にみられる。
これらを見ると、昭和15年以前にも「こけし」以外の呼称を見つける方が困難である。
ほとんど「こけし」名称だけが一般に、普及して、統一して使われていた。それでも、昭和15年以前の呼称は、文献に載っていても、平井氏は「こけしという呼称は昭和15年に定められた」と矛盾したあきれた主張をすることになる。見当はずれ、論外である。
問題点5 (なぜ「こけし」という呼称になったか)の項
『こけし這子の言葉について「こげす」と「おぼこ」という方言を、その発音から「こけし這子」と文字にしたものと推察される』と平井氏の推察が示されている。同じ文字は「こ」だけである。発音も似ていない。この言葉の意味も示されていない。誰が納得できるだろうか。説得力などまるでない。
「こけし」の意味は次のように考えられる。
「こけし」は「子消し」であり、「子芥子」の漢字の意味するところは決して「小さな芥子(けし)」という意味ではない。それは「小さな芥子(あくたご)=役に立たない無用な子」なのである。「芥(あくた)」は「ごみ」「役に立たない」を意味する。間引きされた子は役に立たなかったのである。それゆえ「こけし」は「小芥子(小さなあくたご)」なのである。
問題点6 (「こけし」は「子消し」からきたのは真っ赤な嘘)の項
1770年の歌舞伎に「消す」という言葉が記されていることから、次のように述べる。「上方弁の『消す』という言葉が遥か彼方の東北の貧村にたどりついて、そこで子供を『殺す』という意味に使われたというにはどう考えても無理がある」と平井氏の考えである。
どう考えても無理だろうか。しかも「大変人気があった」と書く。「殺す」を「消す」と表したのは明和、天明、寛政に関西や江戸歌舞伎でも使われ、「消してしまえ」と俗語になっていたと記録にある。江戸後期は伊勢参り、神社仏閣名所旧跡めぐりに見世物、寺子屋の普及、さらに温泉湯治に庶民も遠方まで出向き話題は広がる。上方の物も言葉も東北に持ち込まれる時代となっていたという歴史を平井氏は理解していないことが分かる。
「言語学的にも間違いで、真っ赤な嘘」と断定するその考えも、「どう見ても無理がある」のではないか。「真っ赤な嘘」「噴飯もの」「ガセ」「ケチをつける」という感情的な言葉が“名誉教授”の「論文」に使われように、言葉はどこでどう使われるかは分からないのである。
関西での言葉が東北の貧村にまで伝わらないであろう、という考え方は、次の認識に結び付く。山村にラジオが本格的に普及したのは戦後になってから、と述べ「自分たちの住む土地が寒冷な土地だということを認識するようになったのはかなり後の時代である」という。この平井氏のとんでもない歴史認識・時代錯誤こそ、東北蔑視・偏見ではないのか。
東北は決して閉ざされた土地ではなかったのである。江戸時代の東北農業は「農書」の発行、「寒冷地でもできる農業」「寒冷地に強い品種」を改良し、商品経済、教育の普及、人と物交流は、各地のいろいろな情報を伝えていたのである。江戸時代には、自分たちの土地・東北が「寒冷の地」であることは、誰もが知っていた庶民の常識であった。
問題点7(「子消し」と放送したNHK)の項 放送・書籍への批判・非難
NHKの放送で、こけし工人の伊藤松三郎氏が、対談で「『子供を殺す』ということから(子消し)を作って追想したという話もある」と述べたことに対して、平井氏は「子消し」という“妄説”をNHKから聞かされた松三郎氏が、それを伝聞として話したもの」と想像をたくましくしている。取材を受けている松三郎氏その人が、取材をする方の「妄説」をいとも簡単に受け入れ、それを自分の意見として話すことがあるだろうか。しかも自分はこけし工人である。ことは「こけし」のことである。しかも「・・・という話もある」と伝聞を話したことを、あたかもNHKに騙されたような推論をすることの方が、極めて失礼ではないか。
この推論はなんと、こともあろうに木地師研究の先学、杉本壽氏にも及ぶ。「・・・木形子(子消し)に転訛していったものだともいわれている」との伝聞を取り上げていることに対して、木地師研究の第一人者でも、NHKによって放送された『真っ赤な嘘』に騙されたのであろうか」と伝聞にまで“ケチ”をつける。さらに批判・非難は「東北学」の赤坂憲雄氏にまで続く。「赤子の間引きにからめた子消し説は、広く俗説として知られるところだ」という記述を指して「NHKの影響は『東北学』にまで及んでいる」と、勝手な推論はとめどもなく飛躍する。『死の壁』に「もともと『子消し』からきているという説もあります」と書いた養老孟司氏も、こけし入門書の土橋慶三氏も「という悲しい言い伝えです」と書いて、ともに「真っ赤な嘘」と非難される。同じ論法で多数の人や雑誌にも平井氏の非難はとどまることを知らない。冷静さは完全に失われている。
他人の説は「真っ赤な嘘」、自分の説は「こけしの真実」、この対照的な表現には感心させられるばかりである。
さらに「享保や天明の飢饉と『こけし』」の項では平井氏が「たまたまテレビを見ていたら」として「『子殺し』をして親だけが生き延びようとすることは決してなかったそうである」と述べる。「たまたま見たテレビ」から決してなかったと単純に信じたのであろうか。飢饉のときの「子殺し」はこれまた歴史の常識である。
仙台藩では、幕府よりすでに80年も早く元禄4年(1691)に「間引き禁止令」が出されている。そして、天明の飢饉の影響で、仙台藩は最低の人口人数を示すに至った。その一因とされたのは堕胎、間引きであった。「間引き」は「常習」とまでなっていたのである。同じ本の中で「間引き」「子殺し」はあったと記述しながら「子殺しは決してなかったそうである」と述べている。とても同一人の言とは思えない。平井氏の論理破綻は覆うべくもない。また、天保の大飢饉は「重税が主因」と述べる。飢饉は冷害、台風・風水害や虫害などによる「不作」「凶作」「農作物ができないこと」により、食物が欠乏して、飢え、困窮することである。重税が主因で飢饉が起きるものではない。ここでも歴史認識が誤っている。
問題点8 (飢饉は全国的)の項
『こけし発生の謎』から「西国に不作はあっても飢饉はない」という一部の文章を抜き出して「東北地方以外の地でもたびたび飢饉があったということを知らないのであろうか」と私を批判している。平井氏はその文だけ見て前の文章を見ていない。その文章は「関東以西では・・気候も東北に比べ温暖であり、夏の気温に立ち枯れ・青枯れが生じる冷夏というものはない」次の記述が「西国に不作はあっても飢饉はないといわれる」である。西国には気候寒冷による「不作」はあっても「飢饉」にはならない説明なのである。享保の飢饉が虫害(蝗・いなご)による飢饉で東北には関係なかったことは、飢饉を説明する人の常識である。そのため私は、東北の飢饉は天明、寛政、天保の飢饉として、わざわざ享保の飢饉を除いて説明している。平井氏は自分の都合のよい部分を取り出して、前後の意味を無視してしまう。そのすぐ後に自ら「東北地方の飢饉に享保の飢饉をいれるのは正しくない」という。何と勝手な論理であることか。ひとの著作を批判するのに文章も正確に読んでいない主張である。
問題点9 ⦅天保の飢饉と「こけし」⦆の項
長蔵文書解説に、平井氏は「木地人形(こけし)は贅沢品にリストアップされている」として「ろくろを使って作った贅沢品とされていた木人形(こけし)」と述べる。平井氏は明確に「こけしは贅沢品」とみている。今までの「こけし」研究では耳にしない「新説「珍説」と聞こえる。
これも全く間違った認識ではないか。「こけしは庶民のみやげもの」であり、「高価な贅沢品ではない」ということであり、このことは伝統こけし研究の「常識」である。
「ろくろを使っているので贅沢品だ」と述べているが、庶民は「ろくろ」を買うのではない。ろくろを使って作られる「こけし」である。氏の認識だと、それならば同じ「ろくろ」を使った木地師の挽く他の木地玩具・おもちゃ、鉢、椀、盆、こま、その他も当然贅沢品であり、禁令で全部禁止しなければならない。なぜなのか説明がない。「こけしは「贅沢品」という認識は、平井氏が自分で集めている、人気作家の「高価な」「贅沢な」イメージしか持ってないのではないか。平井氏の認識の誤りは留まるところを知らない。
こけしは温泉のお土産品として広まり、決して贅沢品ではない。高いものではない。だからその地方独特の味をもっていままで作られ続き、求められてきたのである。
いわゆる「贅沢禁止令」の対象は、「華美高価の品」であり「奢侈高値の品」を取り締まったもので「こけし」はこの禁令には指摘されてはいないのである。
それならばなぜ「こけし」が長蔵文書で禁止の品とされたのか。「こけし」が「間引きされた子の供養のためのもの」であったからである。間引きは禁制とされたが、こけしは贅沢品ではなかったため、藩の禁止令として公に禁止できるものではなかったのである。これが私の推論であり『こけし発生の謎』のなかで詳細に述べたものである。
また平井氏は、岩手県沢内村「沢内年代記」を紹介して、そこには「こけし」のことが全く書かれていないとして、さらに西和賀町のKの私信に「『こけし』等ということは聞きませんでした」と個人的な私信まで持ち出して「『こけし』が『子殺しの供養』のために作られたというのは真っ赤な嘘ということが分かる」とする。とても「分からない」理屈である。また調査がなぜこけしの古い産地とされる鳴子、遠苅田や弥治郎ではなく岩手県の沢内村なのだろう。さらに昭和9年の岩手県の凶作を持ち出して、近代において「子殺し」はなかったとする。こけしの発生時は、昭和ではなく江戸後期のことである。論点が完全にズレている、崩れている。
問題点10 (『こけし発生の謎―闇の中の間引き供養考―』)の項
批判された著者は私、清塚隆夫である。平井氏の批判の対象になったことは「光栄」である。
平井氏はここでも「『こけし』という呼称は昭和15年に定められた」とまたしても「こけし」という呼称が初めて出てきたかのように強弁する。明らかに事実に反している。
また、高橋胞吉の名「胞(えな)」の意味を、その由来を知りたいという私に対し「名前にケチをつけている」「名誉棄損」とまで述べる。「胞」は『日本書紀』に「淡路州を以て胞(え)とす」とあり、現代でも「胞」「胞衣」(えな)は民俗学の産育習俗で取り上げられている大事な一研究分野である。名前の由来を知りたいということが、なぜ「ケチをつける」のか全く理解できない。「胞」に偏見をもって「ケチ」をつけているのは誰なのか。
さらに小説の一部を「暗示」とことわって引用したところ、平井氏は驚くことにその小説の別の文章(平井氏が勝手に持ち出してきた文章は二つの部分・13行に及んでいる。)を持ち出して、引用された小説家、多和田葉子氏まで攻撃する。「小説」にまで非難を受ける多和田氏にとっても迷惑この上ない。なお、「こけし」を「子消し」と考えることがなぜ「こけし」を侮辱することになるのかも理解に苦しむことである。「こけし」は東北の生んだ素晴らしい玩具である。
例えば作家の森敦氏はこう述べる『月山』で知られる作家である。
「ぼくはふと、コケシ男根説なるものを思い出さずにはいられなかった。・・そうしたものを少女・童女に仕上げたところに言い知れぬ妙味と面白さがあり」(『こけし・伝統の美・みちのくの旅』)と心の広さを見せている。この本の別の項には、俗説として「子消しの意味を持っているのだという悲しい言い伝えです」紹介されている。この文章を載せた、当時のこけし関係者の心のゆとりを感じさせるものである。「真っ赤な嘘」と論拠もなく他人を批判・非難するものとは違っていることがよく分かる事ではないか。ところがこの文章に対して平井氏は「「土橋氏は80歳を超えており」「文体から判断しても私には土橋氏が書いたものとは思えない」「土橋氏以外の人が書いた可能性大である」と主張するに至る。「こけしの起源」は研究の核心部分である。それを憶測だけで否定することは“非礼の極み”であろう。
著名な仏教・宗教民俗学者・五來重氏は次のように述べる。「解除(はらえ)の呪具としての人形は小児の病を払うために枕元に置く天児とか這子になり・・・そして男根形の御霊人形が子供の玩具のコケシになったことは言うまでもない」(五來重著作集第11) 杉本壽氏の著作では「東北のコケシの起因に関しては、・・轆轤師自らの病除けのコケシからなった方が正しいと思う」(「東北山村の聚落構造」)と述べる。
ことほどさように考えはいろいろある。
そしてインターネットに載った書評欄に、私への非難「根拠のない考察」を「(清塚の著書が)酷評されている。私も全くその通りだと思う」と、平井氏は絶賛する。この書評もまた「こけしの呼称は昭和になってからである」という同じ誤った主張をしている。内容に誤字も目立つ「誤った主張」を「誤った見解を持つ人」が絶賛する。奇妙な光景である。
「子消し」説を執拗に攻撃する人にひとことお断りしておきたい。
「子消し」説を唱えても、こけしの良さを認めるものである。事実いまでも地方独特の味のある伝統を引き継いでいるではないか。それは「こけし木地師」が決して高価ではない木人形に、自分の技術を、思いを、祈りを、魂を込めて「木地師の誇り」を代々引き継いできたものである。それは他の地方にはない「玩具」として、独特の表情を作り出してきたと言えるのである。
菅原道真を天神として祀るのも、元は怨霊であった。鬼子母神は、人の子を食う鬼であった。自分の子を神に隠されて、初めて親の心を知る。それからは人の子の「守り神」になった。ひな人形には厄を付けて流した。怨霊も、鬼も、霊魂の昇華現象によって、現在生きている人間の心の安穏を司るものに昇華したものである。我々は原始古代の昔に、死霊を人形で表現した文化を、今では歴史の遥か遠い彼方へ忘れ去ってしまっているのだ。
木地師の庶民へのやさしい思いが「こけし」を生み出したのである。そして「こけし」は玩具として、かわいい木人形として、伝統に守られて、ほかのどの地方にもない独特の表情を作り出してきたのである。
「こけし」の起源がどう語られようとも「こけし」はその発生・起源を歴史の彼方に押しやり、今では「こけし」そのものとして存在しているのである。
さて、平井氏の『こけしの真実』には「真実」が書かれているのだろうか。
簡単にまとめてみよう。
こけしの謎を何も解明していない。独自の検討もなされていない。
「なぜ東北地方だけで作られたのか」にもその論拠は示されない。
東北独自の自然・風土、感性を検証して、内容を示して、それがなぜ「こけし」を生むに至ったかの必然性も、なにも検討がなされていない。答えとは認められるものではない。
なぜ「こけし」という呼称になったのか。この言葉の意味も示されていない。
『こけし発生の謎』を批判されるなら、私の見解の、なぜ「こけし」という言葉ができたのか、なぜ「こけし」と呼ばれるのか。なぜ漢字で「小芥子」と書かれるのか等、考えを示したがこのことに対して、平井氏は検討した見解を示さなくては、不毛の論といえよう。
「真っ赤な嘘」と主張する平井氏の説は、根拠がない。
論理展開が間違っている。「真っ赤な嘘」説の論は総合的に結論を出すべきところなのに、個別判断に終始している。だから一部の文章を見てその前後を無視したり明治、大正の文献に「コケシ」の呼称があることを知っていても「昭和15年にこけしの呼称が定められた」と強弁したり、江戸時代の飢饉時に「間引き」があることを記述しながら、ふと見たテレビを信じて「決してなかったそうである」と同じ著書の中で自己矛盾・論理破綻を起こしてしまう。
「子消し」が「書かれていないから→なかった→だから真っ赤な嘘」には整合性も根拠も認められない。「書かれてない」ことから言えるのは「書かれてないこと」だけである。事実があったかどうかは判断できないのである。「真っ赤な嘘」は全く意味を持たない。
すでに大正にできた「こけし会」が自分たちの会に「こけし」の名を使っているのに、昭和15年になって「こけしの呼称を定めた」とはなんという矛盾だろう。しかもその内容で公演まで行われているのは驚きである。こんな間違いが平井氏や氏が引用、参考とするインターネットでも飛び交っている。こけし関係者はこの状況をどうみているのか。すでにネットの中で「専門家(?)らしい人」「信者(?)」が「こけしの呼び名は昭和になってから」という全く見当はずれの表現をしている。
ネットの影響はすでに多くの人を、誤った認識に陥れてしまっている。こけし関係者の早急の対応が必要なのではないか。
「こけし」という言葉を使ってきた明治、大正の伝統を守り、引き継いだ先人たち(木地師、愛好家、研究者、初期のこけしの同人たち、「こけし会」まで作った先人たち)がこの状況知ったら、どんな思いであろう。
平井氏の『こけしの真実』には「真実」は書かれていない
さて、『こけしの真実』には私が『こけし発生の謎』の中で検討した「木地師」「氏子狩り」に何も言及されていない。これはなぜ「こけしは東北だけなのか」の一つの論拠である。
そのほか「こけしの菊模様」「こけしの頭の乙の字の意味」「なぜこけしは女の子だけなのか」等を、私は著書の中で考えを示したが、私の本のタイトルまで示し、一項目設けて批判しているにもかかわらず、それらに何の見解も示さない。「子消し」は「真っ赤な嘘」という主張ばかりが強弁されるだけで『こけしの真実』には全く「真実」が見えない。
「真っ赤な嘘」説は、中身のない「真っ白な空論」でしかない。
平井氏はこけし愛好家をも次の言葉で非難する。<「子消し」や「子殺しの供養」に対して何もしない現在の気骨のない愛好家>と表現する。「こけしコンクールの審査委員」「大学名誉教授」という平井氏が「真っ赤な嘘」と決めつける影響力は絶大であろう。
「こけし」の発生・起源は「謎」とされ、今まで誰も「謎」の解明をしてこなかった。
どんな考え・説を信じるかは自由である。「書かれていない」ならば、せめて、周辺資料・史料を検討し「仮説」を示して、真実に近づく姿勢を持ちたいものである。そのためには最低限、こけしと歴史の「事実」については、曲解することなく、正確な理解が必要であろう。冷静に考えてみたいものである。誤った認識から正しい結論を導くことは不可能である。
本の読者に内容を考える機会ができれば幸いである。
「こけし」の正しい理解が進むことを期待したい。 (平成22年6月)
今、令和2年である。上記の『こけしの真実』への批判文を掲示し10年経過した。
改めて思うに、こけしの呼称は明治に「コケシバウコ」と見え、大正に「こけし洞」「こけし会」も出来ているのに、「こけしの呼称は昭和になってできた」という言葉の破綻から始まって、これほど多くの誤りが一冊の本に満載されているとは驚きを禁じ得ない。
平井氏の説は、明らかな誤りを、自ら原典を調べる事もしない“信者”に支えられている。
歴史の総合的な把握と事実の誠実な確認によってこけしの正しい理解が進むことを期待する。 (令和2年2月)
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