プロダクトアウトか、マーケットインか

「ジャムおじさん、何ていってたっけ??汗」

今、5歳になる長男がまだ赤ちゃんだった頃、夜中に泣き止まなくなった際に、パニックを起こした私の口からこぼれた独り言である。

アニメアンパンマンの中でジャムおじさんはこんなことを言っている。

「赤ちゃんが泣いているとき、お腹がすいたか、眠たいか、オムツをかえてほしいのか、そうじゃなければどこかが痛いということなんじゃ。」

30歳目前の大人が、ジャムおじさんの言葉に活路を見出す瞬間であった。

さて、プロダクトアウトとマーケットインという言葉、耳にしたことがある方も多いと思うが、割と昔からある言葉のようで、ただ、私が知ったのは最近の話である。

細かな説明は省略するが、プロダクトアウトとマーケットインの究極の実践者を考えてみると、「宗教家」と「育児中の母親(父親)」なんじゃないかと思い、スマホから書き込んでいるところである。

熱狂的なファンが多い立川談志は弟子たちにこういったらしい。
「どうやったら俺が喜ぶか、それだけ考えてろ。患うほど気を遣え。お前は俺に惚れて落語家になったんだろう。本気で惚れてる相手なら死ぬ気で尽くせ。……扇子だが、座布団の前に平行に置け。結界と云ってな、扇子より座布団側が芸人、演者の世界、向こう側が観客の世界だ。観客が演者の世界に入ってくることは決して許さないんだ。たとえ前座だってお前はプロだ。観客に勉強させてもらうわけではない。あくまで与える側なんだ。……俺がしゃべった通りに、そっくりそのまま覚えてこい。物真似でかまわん。それができる奴をとりあえず芸の質が良いと云うんだ。」

表現者は宗教家の要素を多分に含んでいるのではないだろうか。禅問答では、言い切ることが大切だそうだ。つまり、全てが「100%○○である。」という断定的表現であり、それ以外は求められていない、とある仏教系の宗教家。

そして、その宗教家はヨハネパウロの言葉を引用して続けてこう言う。
「現代の宗教家に求められていることは2つある。1つは、教会を出ること。そして、もうひとつは、普段使っている聖書(他宗教であれば、教典になるかな)の言葉は使うな。」と。

談志はいう。そっくりそのまま覚えてこい、と。

宗教家はいう。聖書の言葉は使うな、と。

私の妻も「女性」から「母親」になる過程で(語弊があったら申し訳ないけど、特に他意はない。)赤ちゃんの鳴き声で何を欲しているのか、聞き分けていた様子を目撃したことがある。もちろん、そのときの時間帯や1日の流れから推察される要素も多くあるのかも知れないが、赤ちゃんのニーズをヘルツとデシベルで聞き分ける様は、一種の職人芸のように、私の目には映った。

これって、マーケットインなんじゃないの。

ひょんなことから、最近デカルトの「方法序説」を読み返した。「我思う故に、我あり」の本である。
「他人の作ったものを基にしてだけでは、完成度の高いものを作り出すのが難しい……不都合に迫られて法律を作ってきた民族は、集まった最初から、誰か一人の賢明な立法者の定めた基本法を守ってきた民族ほどには、うまく統治されないだろう。同様に、唯一の神が掟を定めた真の宗教の在り方は、他のすべてと、比較にならぬほどよく秩序づけられているはずなのは確かである。」とある。

「我以外、皆師なり」
これは、「五輪書」の宮本武蔵の言葉である。私が初めてのプロダクトアウトとマーケットインという言葉を知ったのが、グロービズ(YouTube)の講演だったのだか、聞きながら、「方法序説」と「五輪書」が対になって頭に浮かび、腹落ちしたのが記憶に新しい。

昨日、ツイッターでヨザーさんがこんな呟き。
「マーケットに合わせていくのではない。マーケットに合わせさせる気概が必要なんだ。」

先週読んだ本。
元読売ジャイアンツの代走屋、鈴木尚広の「失敗することは考えない」の内容。
「盗塁は普通、ピッチャーが投げてからスターとを切るが、自分が走り出すとピッチャーが投球動作に入るような感覚になる。そういうときは、走り出した瞬間に、盗塁成功を確信する。」みたいな。

催眠術かよ。場の支配。これは、宗教家と呼んでもいいレベルでは。

給与の額より、「いいね!」の数がステータスになる時代をすぎ、高評価か低評価、もしくは「映(ば)え」とかはもうどうでもよくって、自己の満足を一方的に発信し、それに共鳴したファン(セカンドクリエーター、弟子、翻訳者、生徒、信者)が、内輪で遊ぶコミュニティが余多生まれる時代になるのでしょう。

落語家、宗教家、数学者、剣豪、投資家、スポーツ選手、そしてジャムおじさんから、似たようなモノを引っ張りだしてみました。
ちなみに教育のエデュケーションの語源である「エデュース」には、「引っ張りだす」という意味があるらしい。

可処分所得から、可処分時間、そして可処分精神へ。

心の時代。「何を作る」かじゃなく「誰が作るか」。
セクハラは「何をされたか」じゃなく「誰にされたか」。

これ、大宗教時代の始まりだ。

「ある宗教を否定するということは、自分が何かの宗教に属していることを肯定している証拠である。」

中学生のとき、何の気なしにつけたテレビに流鏑馬(やぶさめ)の先生が出てて、「流派は?」と聞かれて、「特にないです。しいていうなら、他者の肯定でしょうか。」とサラっと言ってたのを聞いてから、人生哲学として丸パクリさせてもらってます、いまだに。(あの先生、お名前何ていうかな。)

個人的にはデカルトの「我思う故に我あり」が原点。
(原点で思い出したけど、座標を発明したのってデカルトであってますか)

赤塚不二夫先生に言わせれば「それでいいのだ」になる。最後、漫画家。赤塚不二夫だけ、先生つけちゃう。

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