再び「戦犯」にならないために

3年前の終戦記念日。私は戦後の女性たちの新聞投稿をせっせと収集し、連載記事にまとめる作業をしていた。その時にFBにシェアしたある投稿。これが、今年の夏には、もっと深いところで響いてきたので、再掲したいと思う。たとえば今年、「ヤジで排除されるのは当たり前」「人の心を逆撫でするような作品はよくないよね」「韓国に旅行するのは危ない」などとしたり顔で空気を読んで発言していた人たち。事態が悪くなっているのに声を上げることなく座視していた人たち。そういう人たちは、いざ政治体制が変わってこの夏の不作為の不義をつつかれた時に、「あの時、日本人はみんなそう思っていたから仕方ない」と言い訳するのではないだろうか?
参院選の後、日韓関係の悪化をあおり立てるテレビとかヤフーニュースのコメント欄(常磐道の煽り運転よりよほど悪質だよ)とか、東京五輪の暑さ対策ができていないのに、選手が遠慮がちにそれを指摘すると、「異常気象は今や日本だけの問題ではない」などとしれっと聞き流す大会役員とか、もうこの国には「自由な言論」などというものが存在しないのではと思わされることが目について、へなへなとなりそうなんですが、そんな時はこの投稿を読み直して、自分で自分に喝を入れようと思う。将来、自分の子や孫から「戦争に反対した人もいたのに、あなたは世の中に巻かれたのだ」と指弾されないように。「戦犯」の汚名を着ることにならないように。
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1970年11月、毎日新聞「女の気持ち」グループ「戦争特集」号から。

「私も戦犯X級?」服部秀子(61)=大阪市阿倍野区

私が戦争中の悲しみやつらい思い出話をするとこどもたちは、「全く異常心理やなあ、狂気の沙汰かなあ」とため息をつく。戦争も初期の支那事変のころ、夫は大病をして長い入院生活をしていた。経済的と、心身ともに疲れ果てていた私の慰めは、幼いふたりの子をつれて出征兵士を見送る行列に加わることだった。こどもとともに日の丸の小旗を振り、「天に代わりて不義をうつ」を大声でどなった。
この時だけは私の心の中から生活苦は消えていて、ただ勇士への讃美に満ちていたのである。そしてふと私の頭をかすめるものは不摂生の結果病を得て、だらしなく病床に横たわる夫の姿だった。「この勇士が彼だったら」と思い、「こんな病気で死ぬくらいなら、いっそお国のために戦って戦死してくれる方が」と思ったものだった。
この話をすると、戦後生まれた末の息子は「それほんとか、けしからん、許せんなあ」とするどくたしなめるのである。
長い入院と療養生活の末生き永らえた夫は、太平洋戦争の時には大工場の責任者として滅私奉公に日夜はげんでいた。終戦直後のこと、工場へ立ち入って遊んでいた私のこどもたちがベソをかいて帰ってきた。そこにいた工員たちに「どこの子?」と聞かれて、「服部です」と応えると、「フン、戦争犯罪人の子か」と冷たくいわれたということだった。
6年生になっていた長女には、戦争犯罪人ということばがわかっていたらしく、痛々しいくらいしょげてしまって二度と工場へは遊びにいかなかった。
「おとうさん、あなた戦犯だといわれてますよ」こどもの傷心を思う腹立ちで私は夫になじった。「いわれても仕方ないなあ、まじめに一生けんめいやったことが戦争に協力したことになったもんなあ。そういうとおまえも同罪だよ」と、いわれてみて、私はガク然とした。やり場のない怒りがこみ上げてくるのだった。あれ以来、私は、「私も戦犯なんだ」という思いのトリコになってしまっている。若い人はただ忠実に、と、強制的な学校や親のいいつけを守ったにすぎないが、私は親の立場としてりっぱな国民に仕立て上げねばという道義心をせき立てて、軍国主義を教え込んだのだった。
「それは仕方ないのよ、国中がそうだったし、そうした忠孝一本の大正時代教育を受けてきたんだもの」と私は面目なく彼らにいいわけすると、「同じ年代の人の中にもそんな圧政の中で自分を犠牲にしても反戦のために戦った人もあったんだ。せめて戦争を批判するぐらいの母さんでいてほしかった」と彼らはなげかわしげにいうのである。私はこうした時、どうしても教育が悪かった、と責任転嫁してきたが、盲目的にお上を信用し、善悪も批判できず、人間の生命を守る反戦ということより、国策にそった優良国民を作り上げることにまい進したことはやはり母親として恥ずべきことだと思うのである。
「兵隊さんのことを思えばどんなことでもしんぼうしなければ」と朝に夕に教え込み、幼い子らが疎開先の学校から二上山へ草刈りにやらされて血みどろの足で帰った時も、栄養失調で膿もった足に破れわらじでドロ道を通学するときも「お国のため」のかけ声で励ましたものだった。十九年に生まれた赤ん坊が田舎家のノミとシラミ攻めにあっていたのに、ベッドを供出してしまった。
この時は町会長より美談だといわれ、私はそれを誇りにしたものだった。ヤミ食品も国策に沿わぬと何ひとつ買ってはやらなかったのだ。車輌作りの夫の工場では資材があったので日常の鍋釜に事欠いた工員が目を盗んではこっそり作っていたのを夫は厳しく罰したそうである。工場の資材トラックに玉葱をしのばせた人もあったそうである。みんなが餓えていたのだった。私たちには国策、お上だけが目の前に拡がって、自分を忠良なる臣民に仕立て上げようとし、本当の人間の生命の尊さが見えなかったのである。これが軍国日本の正義の人だったのだ。
現代に生きる私たちも、日夜私たちにおそいかかる強力な権力、マスコミの中で本当の人間を守るものは何か、ということを第一義として考え、正しいものを見抜く力を蓄えねばならないと、ひしと思うこのごろである。

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