拙論「大国隆正と地域社会—播州小野を中心に―」について~『歴史で読む国学』によせて~②

前回は、私が研究対象として選んだ「大国隆正」が『歴史で読む国学』でどのように紹介されたのかについてと、大国隆正研究の簡単な概要について述べた。いよいよ、拙論の本論部分の紹介をいたしたく思う。

「大国隆正と地域社会」と題したからには、隆正の眼前には地域社会があった。今回分析対象としたのは、播州小野だった。個人的にはこの小野藩校(隆正が創設にかかわった)の跡地にある高校の出身であることから、縁を感じる題目設定だったわけである。

小野藩は、播州平野の一画に領地を構えた小さな藩だった。小さな藩の宿命は、収支バランスの取りづらさである。取れる年貢は限られているのだが、その割に藩として体裁を整えるための出費がかさむのである。小野藩も御多分に漏れず、藩財政は常に危機に瀕していた。そういった藩を支えたのは「銀主」であった。いわゆる豪農は、近世社会において藩にも融資をするというような、経済的に非常に重要な役回りも担い、彼らを西日本では「銀主」と呼んだ。小野藩には心強い銀主がいた。豪農近藤家である。近藤家は西日本一の富豪ともてはやされるほどの家であった。この近藤家と隆正の関係を中心に拙論は構成されている。

まず第一章では、近藤家宛大国隆正書簡の分析を中心に、隆正と地域社会との間に「学問的つながり」がどのように形成され、どのような意味をもったのかを検討した。第二章では、近藤家と同じく小野藩で経済的に力を持っていた三宅家に宛てた大国隆正書簡を皮切りに、小野藩の藩政史資料としてしばしば参照される『公私日記』の記述も検討し、隆正の養子正武の播州小野での機能について考えた。そして第三章では、第一章・第二章で明らかにした地域との「学問的つながり」「血縁的つながり」が、地域社会全体にどのように作用したのかについて、近藤家が小野藩に『六諭衍義大意』の配布を献策したことなどの事例から考察を行った。

次回は第一章の要約をお示ししようと思う。

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