拙論「大国隆正と地域社会—播州小野を中心に―」について~『歴史で読む国学』によせて~④

新任1年目の4月が終わり、あっという間にゴールデンウィークも過ぎてゆく。久々にnoteの投稿をば。

前回は拙論の第一章についてご紹介した。
今回は第二章である。

第二章は「大国隆正と地域社会とのかかわり方―血縁的つながり―」と題して、大国隆正の養子野々口正武の播州小野での機能について考えた。

野々口正武は、徳島藩士長手武政の子として生まれたのだが、才覚を隆正に見出されたのだろうか、養子として隆正の長女わかを配され、小野藩藩校「帰正館」の教授に着いた。

隆正は自ら命名した「帰正館」を正武に任せ、京阪での私塾に専念した。その際、小野に血縁関係を持った人物がいることで、地域社会における教育活動の維持だけでなく、隆正自らの学問継続の効果も得られたのである。

具体的には、婿夫婦の後継者である小野藩の豪商三宅家から経済的な援助を得られたという点と、脱藩浪士であった隆正の身元が小野藩によって保障されたことで、京阪での活動を円滑に行うことが出来たという点の二点に、隆正の学問継続の効能があった。

後者は、京都町奉行所の町役人から学問上の流派や出身地、師匠、俸禄の出所について尋ねられた隆正が、自分の主君を小野藩主一柳土佐守だと、自らの出自をも偽って報告した結果、京都町奉行所から、学者に対して認められていた土地・建物の認可や補助金(銀子五枚)を得ることができ、尚且つ諸々の税負担も免除されたことに表れている。

次回は第三章をご紹介したい。

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