文章を読むことと聞くこと
私の所属しているグループでは、発足当初からずっと、活動内容を会報として発行しています。
初めの内は毎月、途中から隔月となって、先日190号を発行しました。
さらにかなり早い時期から、この会報の音声版も作っています。
会員に視覚障がい者が数名いるからです。
私は長らく編集スタッフをしていて、音声版のモニターもします。
音声版を作るのは、視覚障がい者対象の朗読図書について学習したメンバーが担当しています。
一般に朗読というと、俳優が文学作品を読んだり、或いはお稽古をしている方が開く朗読会を思い浮かべる方が多いかもしれません。
でも視覚障がい者を対象とする場合、少し違ってきます。
私は勉強したこともトレーニングを受けたこともないので、音声版モニターをして初めてわかりました。
視覚障がい者の方々に必要なのは情報です。
これは文学作品だったとしても、過剰な演出をしてしまうと聞き手の邪魔になることも多いですから、多くの場合、淡々と読んだ方が良いようです。
まして、新聞や報告文などに感情は不要です。
音声モニターをして気づくのは、私は日頃、文章をちゃんと読んでいないということです。
印刷版を校正する時、必ず音読することにしているのに、漢字の読みなども不確かなまま通り過ぎていたことに遅まきながら気付いたりもします。
さらに、書く段階で既に相当横着をしていて、記号を使って何となくニュアンスを持たせたり、カットや写真の助けを借りて、曖昧な説明で済ませたりしています。
こんな文章で、聞く人は理解してくれるのだろうか、と不安になることもしばしば…
音声版では、括弧書きの部分は語順を変えたり、話し言葉では馴染みのない言葉は注釈を加えたり、と工夫しながら読んでくれていて、いつも感心します。
写真の内容も、ちゃんと説明してくれます。
ですが、耳からだけでは圧倒的に情報量が少ないかというと、そうでもないな、と思います。
淡々と読んでいても、人の声には温かみがあり、やはり気持ちが籠ります。
文字を読んだだけでは肯定か否定かわかりにくい場合も、声音で予想できることもあります。
尤もこの点は読み手の力量にもかかってきますし、読み手自身が記事の内容を理解していないと逆効果にもなりかねません。
そして思うのは、私たちの多くは文章を読むとき、おそらく目だけで読んでいるのではないのでしょう。
行間を読む、という言葉がありますが、紙面全体からも、書かれた文字以外の情報を受け取っているのだろうな、と感じています。
例え面白味の少ない報告文でも、読み手の五感に訴えかける文章が書けたらいいな、と思うこの頃ですが…
まだまだ遥かな道のりです。
※タイトル写真は一昨日の朝の雲。
花は今月初めに写した近くのお寺の白萩。
どちらも本文には関係ありません(^_^;)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?