見出し画像

伊達政宗公と偉人たちが集まる。みちのく伊達政宗歴史館


今回は戦国武将では、知名度、人気が五本の指に入るであろう、伊達政宗公の軌跡をたどりにきました。
伊達政宗公といえば、眼帯に三日月の兜がトレードマーク。
だが、ここに展示しある政宗公は眼帯をしていないようだ。


1500円で君も伊達政宗公に変身しよう!


ここには蝋人形がたくさん展示してある。
みちのくで出会う偉人達は、な、なんと全部で45名にものぼる。


こちらは羽仁もと子さん。
ジャーナリスト、教育家、青森県出身である。
娘が小学校を終えたのを機に、自由学園を創立と書いてあった。


石川啄木さん。
二十歳で処女詩集「あこがれ」を出版。天才とうたわれる。
病に倒れ、26歳で死去。
後年のプロレタリア文学の草分け的存在である。


宮沢賢治さん。
詩人、童話作家、岩手県出身。
「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」など。


知らない偉人たちもたくさんいたが、説明されているので、「すごい、この人こんなことしてたんか~。へぇー」とか「うわっ!?この人はこんな発見しとる!」など、みていて面白い。
終戦を決定した会議出席者だ。長崎の次は東京だったという説もあるようだ。


ここからは政宗公の心を訪ねよう。


伊達政宗の誕生!
この写真しかなかった・・・。


梵天丸(政宗の幼名)は五歳の時に天然痘にかかる。一命はとりとめたが、右目を失明してしまう。
梵天丸の弟がうまれてからは、母はそちらを可愛がるようになる。
母の愛に飢えながらも、孤独に耐え、逞しく成長していった。


不動明王を指し、「仏はやさしい心を持っているのに、どうしてこんな怖い顔をしているのか?」と質問している梵天丸。


幼いころから、詩、茶道、書道などの教育を受け、どんどんと吸収し、上達していった。その非凡さをみた父は、大いに喜んだ。


結婚。
政宗13才、花嫁11才であった。


初陣。
相馬軍との戦いであった。馬を駆り、相馬軍を蹴散らした。政宗15才。
とこんな感じで政宗は成長していく。


摺上原の戦いで芦名氏を倒したことから、秀吉の逆鱗に触れる。
「俺の臣属を滅ぼした説明しろ。あと小田原攻めすっから、お前も来い」的なことをいわれる。
これは秀吉につくか、北条につくかで重臣と話し合ったシーンだ。
秀吉の家来ではないとの思いが政宗にはあったが・・・。


小田原攻めに参戦した。
この時の政宗公は死に装束であったという。
場合によっては秀吉と刺しちがえる覚悟があったようだ。
だが、秀吉は自分の刀を政宗に預け、作戦の説明をしたそうだ。
「旧芦名領の会津、岩瀬、安積の領地は没収」と罰もちゃんと受けた。


伊達家に従属していた葛西氏、大崎氏らによる一揆が勃発。
政宗が企てたとの情報が秀吉の耳に入った。
その疑いを晴らすため、一揆の鎮圧に向かったが、疑いが晴れず、
秀吉から、またもや「ちょっと来なよ。説明しなよ。」と呼ばれ、
人生で2度目の死に装束に・・・。
今回は磔柱も持ってきていた。政宗25才。


この兵士たちの表情にも注目してほしい。
宮城から京都への長い旅路で、疲れているように見える。いざとなれば戦う覚悟もあったのだろうか。


家の中からハンサム見てるし・・・。
ちなみにこの時は疑いが晴れました。


秀吉は征明軍を発足。
前田利家、徳川家康、伊達政宗、佐竹義宜と豪華な顔ぶれだ。
その中でも京の人たちをにぎわせたのが、伊達軍である。
金色のパイロンみたいな兜をかぶっていて、とにかく派手だったのだ。政宗26才


そんなこんなありまして、仙台城と城下町、農村の整備を行った。


日本の歴史の残る政宗の快挙。
大船の建造。
これに要した大工800人、鉄工700人、木材人夫3000人である。
この船はサン・ファン・バウティスタ号と名付けられ、約180人乗せて、スペインへ。
派遣施設の支倉常長はローマ法王にも謁見している。


このどや顔である。


ホトトギスを聞くため、山々を巡った。
死後はこのあたりに葬られたいと杖を立て、指示している様子。
その2日後、4/20に江戸に出発。5/24に江戸桜田屋敷にて生涯を閉じた。政宗69才


いろいろはしょりましたが、本当に面白かった。ここにきたら、政宗公のことがさらに好きになること間違いなし。
宮城県松島町 みちのく伊達政宗歴史館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?