伊達政宗公と偉人たちが集まる。みちのく伊達政宗歴史館 2 コバの休日 2024年4月7日 23:37 今回は戦国武将では、知名度、人気が五本の指に入るであろう、伊達政宗公の軌跡をたどりにきました。伊達政宗公といえば、眼帯に三日月の兜がトレードマーク。だが、ここに展示しある政宗公は眼帯をしていないようだ。1500円で君も伊達政宗公に変身しよう!ここには蝋人形がたくさん展示してある。みちのくで出会う偉人達は、な、なんと全部で45名にものぼる。こちらは羽仁もと子さん。ジャーナリスト、教育家、青森県出身である。娘が小学校を終えたのを機に、自由学園を創立と書いてあった。石川啄木さん。二十歳で処女詩集「あこがれ」を出版。天才とうたわれる。病に倒れ、26歳で死去。後年のプロレタリア文学の草分け的存在である。宮沢賢治さん。詩人、童話作家、岩手県出身。「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」など。知らない偉人たちもたくさんいたが、説明されているので、「すごい、この人こんなことしてたんか~。へぇー」とか「うわっ!?この人はこんな発見しとる!」など、みていて面白い。終戦を決定した会議出席者だ。長崎の次は東京だったという説もあるようだ。ここからは政宗公の心を訪ねよう。伊達政宗の誕生!この写真しかなかった・・・。梵天丸(政宗の幼名)は五歳の時に天然痘にかかる。一命はとりとめたが、右目を失明してしまう。梵天丸の弟がうまれてからは、母はそちらを可愛がるようになる。母の愛に飢えながらも、孤独に耐え、逞しく成長していった。不動明王を指し、「仏はやさしい心を持っているのに、どうしてこんな怖い顔をしているのか?」と質問している梵天丸。幼いころから、詩、茶道、書道などの教育を受け、どんどんと吸収し、上達していった。その非凡さをみた父は、大いに喜んだ。結婚。政宗13才、花嫁11才であった。初陣。相馬軍との戦いであった。馬を駆り、相馬軍を蹴散らした。政宗15才。とこんな感じで政宗は成長していく。摺上原の戦いで芦名氏を倒したことから、秀吉の逆鱗に触れる。「俺の臣属を滅ぼした説明しろ。あと小田原攻めすっから、お前も来い」的なことをいわれる。これは秀吉につくか、北条につくかで重臣と話し合ったシーンだ。秀吉の家来ではないとの思いが政宗にはあったが・・・。小田原攻めに参戦した。この時の政宗公は死に装束であったという。場合によっては秀吉と刺しちがえる覚悟があったようだ。だが、秀吉は自分の刀を政宗に預け、作戦の説明をしたそうだ。「旧芦名領の会津、岩瀬、安積の領地は没収」と罰もちゃんと受けた。伊達家に従属していた葛西氏、大崎氏らによる一揆が勃発。政宗が企てたとの情報が秀吉の耳に入った。その疑いを晴らすため、一揆の鎮圧に向かったが、疑いが晴れず、秀吉から、またもや「ちょっと来なよ。説明しなよ。」と呼ばれ、人生で2度目の死に装束に・・・。今回は磔柱も持ってきていた。政宗25才。この兵士たちの表情にも注目してほしい。宮城から京都への長い旅路で、疲れているように見える。いざとなれば戦う覚悟もあったのだろうか。家の中からハンサム見てるし・・・。ちなみにこの時は疑いが晴れました。秀吉は征明軍を発足。前田利家、徳川家康、伊達政宗、佐竹義宜と豪華な顔ぶれだ。その中でも京の人たちをにぎわせたのが、伊達軍である。金色のパイロンみたいな兜をかぶっていて、とにかく派手だったのだ。政宗26才そんなこんなありまして、仙台城と城下町、農村の整備を行った。日本の歴史の残る政宗の快挙。大船の建造。これに要した大工800人、鉄工700人、木材人夫3000人である。この船はサン・ファン・バウティスタ号と名付けられ、約180人乗せて、スペインへ。派遣施設の支倉常長はローマ法王にも謁見している。このどや顔である。ホトトギスを聞くため、山々を巡った。死後はこのあたりに葬られたいと杖を立て、指示している様子。その2日後、4/20に江戸に出発。5/24に江戸桜田屋敷にて生涯を閉じた。政宗69才いろいろはしょりましたが、本当に面白かった。ここにきたら、政宗公のことがさらに好きになること間違いなし。宮城県松島町 みちのく伊達政宗歴史館 ダウンロード copy 2 この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか? 記事をサポート