無題

このぼくへのインタビューは、ごく最近、長年に渡り性暴力加害を部下である職員に対し行なっていた(とされる、と念のため付け加えます)社会福祉法人の理事長と、その性暴力被害を相談されたにも関わらずなんら対策を行わなかったとして個人と法人が同時に告訴された事件が明るみに出るその前に行われたものです。
 その法人へ僕は、2012年5月から2013年3月末まで勤めており、僕自身は別の上司から明らかにパワーハラスメントと思われる言動を日々、最も記憶に深いある特定の日のことはいまだに忘れることができません、受けていました。行きすぎた行為に、相談したものの具体的な対策を取ることはなされませんでした。そんな無思考を生む過酷な長時間労働が蔓延する職場でした。退職後も、自分自身だけの問題であると捉え、その記憶を薄めていけるようにと努めてきましたし、それが活動原理でしたが、この告訴によって、消えることなく存在し続けた記憶が一気に蘇りました。僕の受けた暴力は小さなものかもしれません。ですが、大小も多少も関係がないと思えるまで考えは進みました。この7年8ヵ月間という時間の中で。この仕事が僕にとって障害福祉という世界との出会いでした。
 まだ裁判が行われる前なので、黒も白も着地点もわかりませんが、僕は白ということはありえないのではないかと考えます。自分にだけじゃなく、この連鎖するような暴力を生む環境は、決してこの一法人だけの問題ではないと考えますし、こうやって吐き出していかねばこの身が動かなくなってしまう恐怖から小出しにですが、言葉にしていきたいです。まず、訴えるに至った二人の、そしてこの問題に限ることなく、声をあげることができなかった他の問題の当事者も含めて、傷がそう簡単に癒えない、が、祈ることしかできなくとも、個人だけでも癒えないその傷を、みんなで、どうにか少しでも力になる方法を手繰りたいと考えています。そもそも暴力をうまない環境についてこれからも考え抜く。
 長くなってしまいましたが、原告を支える会によるサイトを紹介します。ぜひ関心を向けていただきたいのと、一言でも何かしら言葉を思い浮かべてほしいと思います。https://www.fnht.org
 最後に、冒頭に触れた僕がこの夏ごろ(本件とは関わりなく)受けたインタビュー記事を抜粋・転載します。ニュアンスだけでも、障害福祉分野(だけじゃないですが)における自分のスタンスを感じてもらえれば幸いです。「しっかりと必要な目的のためにアール・ブリュットを推進している団体」というのは、ここで触れている理事長が所属する社会福祉法人(の所属部署)のことです。インタビューの趣旨はぼくのアート活動の活動原理を問われたものですが、全文はこちらで。https://birdseatbread.jp/髙橋誠司あるいは一方でタカハシ-タカカーン-セ/
以下、抜粋。
T(※ぼくですね) ちょうどよかったんですよね。福祉の話に戻ると、音楽っていうスキルを活かす時に「音楽祭の裏方してよ」って言われて、現場ではないですけどそれが実は福祉で、知的障害のある人と触れ合う仕事だったんですよね。だから、偏見がなかったと言い切っていいのか。もともと偏見を抱く経験すらなかったけど、いわゆるなんというか、その人たちをかわいそうとも思わなかったし、なんか怖いとも思わなかったのを確認した。大人になったら障害のある人と普段こんなに出会わないんもんなのかと思いました。その現場やと出会いすぎるから、むちゃくちゃいるやんって。彼らそれぞれの凄みに圧倒されっぱなしでした。
Y(※インタビュアー) いるところに行かないと障害者の人たちには出会わないってことですか?
T そうですね。もちろん街にいらっしゃいますが、出会えてはいない。しっかりと必要な目的のためにアール・ブリュットを推進している団体だったんですけど、それにもまた一方で僕は違和感を感じて。ようは絵を描ける人とか作品をつくれる人だけを推進してしまう恐れがうまれるのではないかというか。簡単に言ったら、障害者ってこういう絵が描けてすごいよねってことになってしまう。ポストコロニアリズム※8じゃないけど、なんかこう、一方的に上から価値を与えてるんじゃないかな、みたいな気持ちもしたんです。で、実際その後も作業所でアトリエ活動の支援スタッフをやっていて、現場はそんな風じゃなかったけど、視察とか行政が来ると「私たちも障害のある人の施設をやってるんですけど、どうやったら絵を描けるようになりますか」とかって言われるんですよね。
F(※インタビュアー) はい。
T いや、そんなんじゃないよみたいな。僕がいた作業所も20年くらいかかって色々な積み重ねや発見があってこうなってる。ある程度、美術をやろうとは思っているけど描けない人を排除してきたわけじゃないし。そんな人たちに声かけてみて、実際にやって、偶然描くことにはまったりするわけですよね。で、結構面白い作品が生まれてきて、まあ展覧会してみよっか、みたいな。そんな感じだったから今があるのに、インスタントにそれを目指してしまう後追いの人たちが生まれてきた時に、どうやったら絵が描けるかっていうシンプルな問題になってしまうと、描けなかったら不本意なわけでしょ?なんでよ、みたいな。障害のある人たちが絵を描くこと自体が、なんか教育的になっちゃって、すげー暴力やなって感じて。悪気なく言ってるからマジで怖いって思ったんですよね。それと実際に作業所で絵が売れたりとかすると、入ってくるお金やそもそもの出展料とかっていうのも、作業工賃から考えたらすごい額なんですよね。もう桁が違うんですよ、2桁くらい。そうなってくるとまた現場で不公平感が生まれたりとかして。僕がいたところは、最初はお母さんの会とかが発足で何十年前にできた作業所だったんです。だから、絵が売れた人のお母さんも、急にこんなお金もらっていいんかなと感じたり、全部寄付しちゃったりとか、もらえませんっていう反応だったりする。絵なんか描かせないでもっと作業だけさせてください、みたいな場面もあるし。あらためてお金って怖いなって。大学は商学部出身なんですけど(笑)。
F ちょっと整理すると、要は絵が売れてお金っていうかたちになったり、描いたものが価値づけられてきた時に、それはそれで作業所の中で普通にされてる作業との差とか、描く人と描かない人との差とか、あるいはやっかみとか、色んな差がその新しい価値によって生まれてきてしまうみたいな。
T そうですね。何かが価値化する時って、やっぱりその日陰になることもあるだろうし、もしかしたらそこへの配慮のことをソーシャリーエンゲージドアートって言えばいいのにって思ってるんですけど。結構みんな価値化のことばっかりに血眼になっていて、不具合に気づきにくいんですよね。救われる人が一人でも多くなってるっていうのは、そうかもしれないけど。(絵を)描けない人の価値がそのままやったらいいんですよ、描ける人が評価されても。でも下がるんですよね。
F より下がる。
T そう。それはちょっと…別のところでその人は救われてるかもしれないけど、でもこうなってることもあるっていうのを思ってほしいし、美術も芸術もそうだけど、ようは一番健全な業界の状態って、面白くない人もいれないといけないんですよ。
F そう思いますよ。
Tそもそもおもしろいって誰が決めてるねんって話だけど、50歳の新人を正当に評価できたらその業界は健全だと思います。いわゆる将棋界とか、文学とか。やっぱりちょっとね、美術は青田買いが過ぎるというか。大学の美術教育と連結し過ぎてるのかもしれないですけど、ちょっとヒーローを探し過ぎてるし、過度に消費的やなとは思いますね。本当はおもしろくなくても続けれるとか、お金を得れたりもするのが健全だと。言いたいことはそれに尽きるんですけど。
Y うん。
T 自分の活動はそれを体現しようとしているというか、ちょっと美しく言うとそんな感じですね。「お前何も作ってへんやん」という声に対して、じゃあ作るってなによとか。1つのジャンルを価値化することに必死になり過ぎて、その他に対する配慮がなくなってるんじゃないかなとか。いまの助成金にしても、舞台できなきゃ死んじゃうから舞台関係者に金くれって言ってても、どこかで牌は限られてるから。じゃあそれ以外のアーティストは死んでいいの?っていう。大袈裟ですね…
Y その条件に入らないって言うなら、そもそものその条件って何やねん、みたいな。
T 生きてる人って評価しにくいんですよ。で、作品と作家が別のものだっていうのは死んでからのことなんですよね。そういう意味で本当に批評できている人は少ないと思うから。やっぱり生きてる人の生き様も評価に関係してくるんですよね。だから変な話、逆算してそうしてるわけじゃないけど、サバイブするには友達多いほうがいいと僕は思ってますね。
以上。