学校での部活動賛成派は「底意地が悪い」


学生時代しかスポーツをさせない歪んだ精神論

日本国内には様々なふわっとした活動や団体が混在していますが、世間の中でもっとも百害あって一利なしの活動が「部活動」(運動部に限った話)だと断言でできます。

部活動を肯定する者の意見で多いのが「社会に出て役に立つ」「根性が鍛えられる」「協調性が身につく」等々ありますが、すべて欺瞞に満ちた部活を正当化する目的だけの虚言です。「社会の役に立つ」と漠然と言われても何のこっちゃ理解できずにファジーな印象だけでなんとなく納得するだけの人のほうが多い気がします。
社会に出て役立つ、根性が鍛えられる、協調性が身につく、そのすべてがブラック企業でしか役に立ちません。
根性論で今時仕事している人は周知のように日本の生産性ワーストに寄与しているだけの老害であり、協調性が身につくといってもこのグローバルな時代で国内だけで協調性なんかあっても所詮村社会の掟レベルの不文律が身につく程度です。

日本の部活動に関する否定的な書籍を読んでも「顧問が大変だ!」としか部活を延命させるシステムの問題しか考察されていません。

昔に比べて顧問が大変だ!なんて議論は極端なことをいってしまえば大した問題ではなく、主役はあくまで生徒であってそんなシステムの問題は本音を言えば興味ないというのがほとんどの人の感想じゃないでしょうか。

顧問の問題は部活動を存続させるに当たっての隘路でしょうが、そんなものはなくなろうが本来は知ったこっちゃない。

答えは部活動を廃止にすれば良いだけの話なのですから。

世界中見渡しても見ても部活がある国のほうが圧倒的に少数派であり、それで何か特別な社会問題が起こっているというのを聞いたことがない。

そもそもどうして学生時代しかスポーツや文化活動ができないのか疑問です。
私がオーストラリアに住んでいた時は200ほどある習い事が老人から子どもまですべての世代で無料で利用できるシステムでしたが、何故日本は「学生時代のみ」なのでしょうか?

日本にはスポーツ庁などと仰々しく設置してあり、しかも理念はこうです。

”スポーツによる健康増進を推進するため、関係省庁と連携を図りながら、スポーツ医・科学等の知見を活用し、心身 の健康の保持増進を図るためのスポーツ・運動に関するガイドラインの策定及びスポーツ・レクリエーションを活用した介 護予防を促進するとともに、スポーツウエルネスに対する意識の醸成を図る。゛

学生だけと偏ったスポーツの在り方はそもそもが理念からかけ離れているし間違っているわけであって、全国民がスポーツを楽しむために創設されたのがスポーツ庁の理念であったはずです。

しかも「学生時代だけ」に限って一つのスポーツを何年にも渡って毎日続けさせればウエルネス(健康)を損なうリスクまであるのです。

スポーツ障害は昨今深刻な問題として取り上げられるようになり、一つの競技にのめりこむのは相当なリスクがあるという研究結果は周知されています。

そこを押してまでスポーツさせるのは行政の責任、学校の責任、本人の責任、そして親の責任でもあります。

大人の感動ポルノとしての役割

そして近年高まる大人の欲求を満たすためだけに機能しているとしか思えない部活動の姿。

「全国大会」などと大げさな素人集団の部活の試合をテレビ中継し、それによって自分の悲痛な日常から逃避しようとする浅ましさ。

大船渡(岩手)の佐々木朗希投手(当時)を張本勲氏がTBS系テレビ「サンデーモーニング」で罵倒した言葉が印象的だったが、まるで「俺たちが楽しみたいんだから子どもの将来なんかぶっ潰してでも感動させろ!」と言わんばかりの老害ぶり。

感動させろ!感動させろ!の日本人の浅ましさ、自分本位の醜態がここまで披露されるのは部活動の場ぐらいしかないと断言できます。

まるでエンタメ番組でもを観てるように、少し下手くそだがプロにはない一生懸命(無理やりやらされてるだけ)な学生の姿で己の悲惨な日常のはけ口にする。

金銭など一切渡さず、「全国大会」を餌に、大衆の享楽に利用する今の部活動の姿はあまりに生徒たちにとって残酷だ。

感動ポルノを通り越してスナッフ映画でも観て興奮しているヤカラにしか見えないが、一番質が悪いのが当の大人たちが悪びれていないことです。

悪びれるどころか「あいつがもう少し頑張ってれば勝てた試合だった」「あそこでどうして選手を変えなかったんだ?」等などニワカ評論家になっているのも目も当てられない醜悪さ。

巷でよくいわれている援助交際で買春したオヤジが行為が終わった後に「こんなことしてちゃダメだ、両親が心配してるだろうに」などと説教オヤジに変身する様に酷似していると思う。


すべての元凶はスポーツ推薦

70年代から始まったスポーツ推薦ですが、個人的にはこれが部活問題のすべての元凶だと思ってます。

そもそも大学や高等学校、中学校は学問をする場所であって、スポーツ養成所じゃない。スポーツによって育まれる人格形成は否定しませんが、現実はそればかりに打ち込ませて本業の学問はそっちのけ、という学校が多い。

部活の成績で入学したのだったら、そのスポーツを科学的視点から論理的に思考させることのほうが重要なのは言うまでもありません。入学してから実践ばかりの根性論で技術的な向上、勝利至上主義に没頭するのは愚の骨頂としかいいようがありません。自分のしてきた運動を活かしてなにに気づいたか、どのような社会貢献、社会的役割を考えるのが学校の学びとしては大切です。

しかしながら70年代からの少子化が影響してるのかは分からないが、学校存続の視座から部活を新入生勧誘の客寄せパンダとして利用しているのが現実なのです。
しかも監督や顧問は功名心のために子どもの労力や未来を搾取し、金儲けの道具として生徒を消耗品のように扱っているのは人権侵害、もっといえば子どもへの虐待行為です。

恐ろしいのは「虐待の連鎖」です。

人間の脳は過去の嫌な記憶を忌避する性質があるため、部活に熱心だった者ほど必ずといっていいほどその思い出を美化し、それを虐待行為と指摘すると憤慨します。
無理やりでも人生の辛い経験を正当化することに尽力し、前述のように「良い思い出だったと」とのたまわり、驚くべきことは他人や自分の子供までにその愚行を強要しようとするのです。
やっていることは某宗教団体の壺売りと同じ構図です。

今の部活の問題点を本気で改善しようと思うならな、すぐにでもスポーツ推薦は廃止して、学業だけに専念できる本来の学校の姿に戻すべきです。


部活存続派は底意地が悪い

昨今問題になっているPTAなどもそうですが、部活の問題点はやはり「俺も(私も)苦労したんだからお前もやれ!」といった他人まで不幸に巻き込もうとする意地の悪さが影響していることは否めません。

前提として私は反日思想などは持ち合わせていません。

しかし、大阪大学の研究発表でも注目を集めた日本人特有のスパイト行動が日本の部活の元凶であることは間違いありません。
相手が得になることだったら例え自分が損をしても相手の足を引っ張る、これは日本人の環境問題ではなく遺伝子的な問題ですのでなかなか改めるのは難しいようです、ですがこれを意識することで多少は今の日本の息苦しさからは解放する道筋にはなるのではないでしょうか。

「俺も苦労したんだからやるのが当然」

前述したように「部活で協調性が養われる」「体力がつく」、終いには「根性がつく」と呆れるような支離滅裂な理由をつけてきますが、これはもう荒唐無稽すぎて論ずるに値しない意見であります。

部活存続派の意見をまとめると、目的はないが自分も苦労したし理由は曖昧だがとにかくみんなやってきたことをやってりゃ間違いない、ということが言いたいのでしょう。
まるで伝統と言いたいのでしょうが、たかだか学校の部活動に伝統なんてあるはずがないのは自明の理です。
数十年の活動に歴史なんかあるはずもない。
あったら大変なことです、あのアメリカ合衆国でさえ大変な歴史ある国になってしまいます。


部活をやらない、させない、持ち込ませない

これまで述べてきたように部活に一利一害はありません。
100%害にしかなっているとしか思えません。
私も必死に部活の良いところを探しましたが、害や短所はあっても功績も利点も見出すことはできませんでした。
テロや暴力団と同義でそこに必要悪の一端でさえ担っていない存在です。

健全な人間性、健やかな成長を絶対的価値に置くならば、日本の部活動は非対称な活動であり人格形成を阻むものと断言できます。

まさに百害あって一利なしを体現してる存在が日本の部活動なのです。

去年、スポーツ庁は部活の地域移行を提言しましたが、そこまでして部活を存続させる意味があるのか?甚だ疑問です。
存続させるにはそれなりの意義ある客観的データを出すべきです。
「今現在あるから続けるべき」は暴論であり、未来ある子供たちを不幸にさせる負の連鎖しか産み出しません。

一端立ち止まって部活とは何か?を熟考すべきです。

とりわけ運動部に限って言えば今日本国民に必要なのは「部活動」ではなく「スポーツ」なのだと筆者は考えます。






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