高校時代の苦い思い出

 私の高校時代はほんとに楽しかったです。本にも書いたように1年生の終わりまで勉強をしたことがなかったので、2年生からは遅れを取り戻すための勉強ばかりでしたが、それでも楽しかったです。
 なにしろ、1年生の時は定期試験期間でも勉強をせずに、真空管のラジオやアンプを組み立てていました。1年生の後半は一生の大親友となる同級生とやるようになりましたが、1学期は近くに住む中学校からの友達と遊ぶことが多かったです。その友達は高校では隣のクラスでしたが、私の住む町の男子は2人しか通学していなかったので、朝は誘い合って自転車通学していました。また、帰りには我が家の方が遠かったので、彼の家に寄って遊んでいました。私の趣味に惹かれるように彼も電子工作に興味を示し始めたからです。
 しかし、2学期の初めから彼の家に誘いに行ってもなかなか出てこなくなりました。そしてギリギリまで待っても来ないときはそのまま学校に行くことが多くなり、たまに出てきても必ず途中で忘れ物をしたと引き返すのです。今で言う不登校になっていたのです。その当時は登校拒否と言っていましたが、そんな言葉も私は知りませんでしたので、なんで?と思うばかりでした。そして休学をしたことを知り、一人で登下校するようになりました。なにしろ本にも書いたように、私の成績は最低でしたが、クラスも楽しく・また親友もでき、同じ趣味になりましたので毎日が楽しく、近所の友達のことは次第に思わなくなりました。しかし、登下校の時に彼のお母さんをたまに見かけると白髪がものすごく増えて顔もずっと老けて見えました。フランスの女王がギロチンにかけられることになった翌日には銀髪が白髪になっていたという話を聞いたことがありますが、そんなはずがないだろうと思っていましたが、有りうるかもしれないと感じました。何時だったか忘れましたが、このお母さんと話す機会がありました。びっくりしました。私が関係していたことを知ったからです。入学直後に行われた校内模擬試験の成績がものすごく良かったとのことです。ところが6月末の試験の結果があまり良くなかったのです。期待をしていた両親、特に父親が激怒して、「あいつは勉強せんでもできる子だがお前は勉強せないかん子やのに一緒に遊んでどうすんや」と、かなり強く叱られたため、不登校になったとのことでした。無口な人という印象のお父さんでしたが、かなり強引な言動をしたというエピソードを、ずっと後で知りました。もしかして、あの時の私の成績を知らせてあげていれば、彼の不登校はなかったかもしれないと思ったりしました。
 そして退学をして、大阪で就職をしたと知ったのは2年生になった5月頃だったと思います。電子工作には是非欲しかった「テスター」という電圧等を測定する道具が届けられました。私には高価な物なので、もらっていいのかなと思いながらもうれしく使わせてもらっていました。その他にも「リーダース・ダイジェスト」という雑誌が半年か1年くらい定期的に届けられました。ほとんど読みませんでしたのでもったいないなという気持ちでした。最後のプレゼントはレコードでした。フォーククルセダーズの「悲しくてやりきれない」 でした。これには悩みました。流行っている曲だから送ってくれたのか、彼の心情を表す曲として送ってくれたのかの判断ができなかったのです。私はもう大学生になっていたと思います。そして一度だけ彼に会いに行きました。狭い部屋に通されましたが、もともと無口な人だったし、私も世間話は苦手でした。彼の日常について聞ければ、話は続いたと思いますが、なんとなく聞いてはいけないように感じていたので、ほとんど会話はなく、懐かしさだけだったと思います。やはり、私と付き合っていなければ、彼も違う生活をしていたのではないかという負い目を感じ続けていたのです。後は年賀状のやりとりだけになりました。定時制高校に行った方が得だと思う等と書いた記憶があります。
 私が35歳の時に地元に帰ってきました。彼が結婚したという話も聞いていました。そして、盆休みの地元行事に参加すると彼も来ていて、近寄ってきてくれましたが、やはり話が続かず、気まずい状態のままでした。その後地元行事もなくなり,会うことも無くなりました。
 私の息子が不登校になったことは本にも書きましたが、かなり冷静に受け止められたのは、自分の教員生活での経験・知識もありましたが、多分その基礎としての原体験があったからだと思っています。

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