1泊4日の滋賀旅行

 コロナ前は年に2回ほど妻と旅行していました。そのずっと前は1人で年に5~6回大阪に電子部品を買いに行っていました。コロナになってからそれらを全て止めていました。コロナが落ち着いてきたのと、私の高校1年生からの大親友の妻が2月になくなってしまい、親友は一人暮らしをしているので様子を見に行くことにしました。その友だちは滋賀県野洲市に住んでいます。ここに昔、世界最大のコンピュータメーカーの工場があり、そこに務めていて家を買ったのです。友だちから是非遊びに来るようにと言われたのです。そこまで行くのなら大阪に住む娘夫婦とも会いたいので休日が良いだろうと土・日に行くことにしました。普段はこの日は避けているのですが、娘たちの休日に合わせました。そして火曜日には昼間にバドミントンの練習があり、夜には飲み会の予定も入っていました。しかし、友だちからはせっかく来るのだから長くいられるようにしろと言われましたが、次の予定が詰まっていると伝えました。
 そこで7月の第1土曜日に行くことにしました。ただし、昼間はバドミントンの練習がありましたので夜に出かけることにしました。最初の計画では日曜日の早朝に出かけて昼頃野洲駅に着く予定だったのですが、友だちとの時間を増やすため前倒しにしました。夜の11時に家を出て高松東港に向かいます。午前1時発のジャンボフェリーに乗るためです。昼間の練習では体育館のドアを閉め切りカーテンを引いて水銀灯等で証明にしますのでじっとしていても汗が流れるところで動き回りますので、シャツを絞らなくても汗がしたたり落ちる状況なので終わるとぐったりしていましたが、車を1時間以上運転しましたので船に乗ってもなかなか寝付けません。しかし、4時過ぎには三宮港に入港するとの船内放送で起こされました。JR三宮駅から野洲に向かう列車は通勤快速があると思っていたのですが早朝にはなくて、京都行きの快速電車に乗り京都で乗り換え野洲についたのは8時前でした。私にとってこの時刻はまだ布団の中です。友だちもそうだろうと思い、早く起こしては申し訳ないので駅前の喫茶店かコンビニで時間を潰すつもりだったのですがこの駅にはどちらもありませんでした。そんな店を探してうろうろしているときに友だちから電話がかかりました。「今どのあたり」、「もう野洲駅におるで」で迎えに来てもらいました。家で一度落ち着いてから「彦根城に行こう」と出かけました。雨の心配をしていたのですが、滋賀県は元々雨の少ない地方ということもありますが、上天気だったので暑い一日でした。彦根城はかなりの見物客がいて混雑している上に階段が急なのでしんどかったので、よくよく考えたら、夕べの晩酌の時つまみを食べてから何も食べていないことに気がつきました。最近空腹を感じることがあまりないので気にもなりませんでした。そして昼食を食べたのが2時くらいだったので18時間以上水分だけで過ごしたことになります。午後は琵琶湖バレーに行きました。ロープウェーとリフトで琵琶湖のかなりの部分を見て楽しみました。夜になってやっとアルコールにたどり着けました。
 その後この旅行の大きな目的である友だちが持つ電機・電子関係部品の物色です。互いに前ほどの情熱はなくなったのですが細々と制作や修理をしています。友だちの持っている部品で欲しいものがあれば持って帰って良いよと言われて来たのです。友だちは私以上にいろいろな部品等を多量に持っており物色に時間がかかり寝たのは2時をかなり回ってからでした。おまけに朝の7時前に「今からラジオ体操に行くけど、一緒に行かないか」と起こされました。昨日野洲駅に8時前についたときには「もう起きとるで」は不思議なことではなかったのです。ラジオ体操は断りましたが、もう寝られなくて、ラジオ体操が終わって帰ってきた彼が作ってくれた朝食を食べました。彼は退職間際の健康診断で膵臓がんの3~4期であることが分かり、ネットで調べて無農薬人参・リンゴ・レモンのジュースが良いことを知り、飲用することで、もう15年以上何の問題もなく、今も続けていました。薬と言うより結構おいしかったです。その後どうしようとなり、伊勢神宮に行くことになりました。1時間ちょっとで着き、参拝道のかなりの距離を歩き続けました。暑かったです。さあ帰ろうと駐車場まで来ましたが彼の車が見つかりません。助手席でいると場所はあまり気になりませんが、このあたりではなかったはずと別の場所を探していると車を見つけました。今度は彼を探しに行って「こっちにあったで」と案内を始めたのですが、分からなくなりました。彼は認知症ではないのですが人や事物の名前・場所が分からないと言うことで医者についていますが、私も似たようになっているのかも知れません。年も年ですから。今度は彼が車を見つけ、やっと帰途につけるようになったのですが、大阪の日本橋で買い物もしたいし娘夫婦との約束の時間もあるので、ここで彼と別れ近鉄で日本橋に向かいました。恵美須町でもかなり歩き回って部品を調達して娘との約束の新大阪に向かいました。7時前に娘と待ち合わせて予約してくれていた店につきました。しばらくして娘婿も到着して10時半過ぎまでわあわあと飲みまくりました。年の差とか・義理の親子などは関係なく互いに楽しく過ごせました。私が1つだけ親らしい言い方をしたのは婿が「僕は学がない阿呆です」と言ったときです。確かに高校を中退してかなり親や周囲に迷惑を掛けていたらしいのです。しかし、「学がない阿呆などは思わなくていいのではないか。私は一流大学を出ても阿呆な奴を一杯見てきたよ。そして外国のあるノーベル文学賞作家が『私の両親は文盲で、何も知らない人たちですが、その二人から私は如何に多くのことを学んだか分かりません』と言うとるよ」
 二人と別れて三宮に向かい午前1時発のフェリーに乗り込みました。乗って横のなるのと眠るのが同時でした。私のガラケーは歩数計がついていますが、胸ポケットに入れているため実際の歩いた歩数は表示されません。普段は1日数百歩しか歩いていないことになっています。しかしこの日は2万歩を越えていました。おそらくその倍以上歩いていただろうと思います。足がむくんでいました。そして朝の4時前には高松東港に入港しますと起こされました。家に着いたのは6時過ぎですが、1時間以上運転したので寝られませんでした。結局3晩の睡眠時間はトータルで10時間ぐらいだと思います。その後喫茶店でモーニングを食べてバドミントンの練習に行き、夜はまた飲み会で楽しみました。
 後日知り合いにこの旅行の話をすると「超強行軍やな。体は大丈夫やったん」と聞かれたので「若いもん。まだ29歳やで」と言うと「何が29歳や」と返されたので、「嘘ちゃうで。来年さんじゅ(傘寿)やから」と答えました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?