少し考え方が変わりました

 私が出した本の中で、不登校生の親の会に参加していて、参加していた母親が半泣きで「子どもが不登校になったのは私のせいではない」と、一生懸命に訴えていたのを何回も見ていると、一番つらいのは子ども自身だということを思わないのかと怒りを覚え、誰にもぶちまけられないので一緒に参加していた妻にぶつけてしまい、その会への参加を以後止めてしまったと書きました。
 一番つらいのは子ども自身だということには変りはないのですが、その後このお母さんへの考え方が少し変わったことに最近気がつきました。そのきっかけになったのは、最近の世情です。少し前には考えられなかったような事件が多発していますね。なぜこんなことが起こるのだろうとよく考え始めました。その一つの結論として、犯罪の厳罰化は解決にはならないと、前に書きました。厳罰化すれば、もっとひどい犯罪が起こると言うことです。
 もう一つの結論が人間か日本人かは分かりませんが、ストレスに弱いのではないかと言うことです。だから自分が悪いと言われることに極端に弱すぎるので、「私は悪くない」と思わないと自分が保てないのではないかということです。だから世間体の悪い不登校を出した家庭では義理の親と夫にお前が悪いと決めつけて「私は悪くない」と義理の親と夫は自分たちを肯定したのではないかと言うことです。だからこのお母さんは自責の念のほかに周りからのも攻められていたのかも知れません。だからどこにも自分は悪くないと言える場所が無かったのかなと思います。
 なぜこんな簡単なことを喜寿になるまで気がつかなかったのかと、振り返ると「私が悪いと言えば良いんだろ」と仲間たちに背を向けていた自分の姿を見ました。いつも私は気がつけば反主流派でした。そうなろうとしたのではなく、自分の感じたことを言うと結果としてそうなっていました。そして集団は敵がいると余計まとまるのですから、私は好都合だったのだと思います。
 しかし、私もそれを好都合と感じていたのです。集団内の殆どの人に相手にされませんから付き合いの時間が減るからです。自分の好きなことができる時間が増えますから。しかし、もちろん完全孤立ではありません。必ず多少とも私に共感してくれる人はいます。そういう人とは反目する必要はありません。そんな人と話すのは他人の悪口ではなく、自分がこれからどうしたいかです。時には他人の悪口・噂を言うこともありますが、その後の自分の気持ち悪さがたまりません。この間もお茶のみ仲間の女性たち(なぜか男性は私一人が多い)に「この会が人の噂・悪口を言うようになったら、私は誘われても用事ができます」と申し上げました。
 これは日本人の特徴だと思いますが、「他人にどう思われるか」が強すぎる。「これをやっているときの自分が好き」といえるものを見つけられたら、世の中が変わって見えるのではないかと感じます。たまに同級生に会うと「一日が長い、やることがない」と言います。私の返事は「その余った時間を俺にくれ」です。多分日本の教育は上(先生等)からの指示(だけ)に従い疑問を持つなだったのではないでしょうか。その意味では日本の教育は目標にかなり近づいたと思います。そしてその結果今頃になって困ったことが一杯起き始めたというのが私の見方です。

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