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差異

人は差異に敏感だ。

差異を認識をすると、その位置付けをする。
まず自分と同じかどうか、違うのならば、受け入れ方をどうするか。

同じことで安心することもあるし、ある種の自己嫌悪から、不安に苛まれることもある。

違うものに対しては、何らかの価値基準で自分との関係で優劣をつけるか、または他者の存在に対しての理解と受容ができるならば、そのものとして受け入れる。

違いに優劣を付ける人には、その差異がある事項についてのみの優劣ならまだ良いが、人としての優劣を付けようとする者もいる。この思考のパターンの者は、差異、記号論的なマッピングに安心してしまい、真に人との関係を築くのは厳しい。例えば、自分がいくら稼いでいて、相手がいくらだから自分の方が素晴らしいといった類いの思考の人間は、資本主義だったり、資本主義のある種のドライブである記号論に囚われ、人の心は買うことができず、最後は持っていくことができない紙幣のみ残るだけだ。

インターネットで溢れているのは安易な位置付けであり、ラベリングにより、自分の安定した立場を築こうとする人が、結局は人らしく生きることのできない記号的な生き方を選択しているという事実だ。

記号的な生き方に囚われることは、精神的な不安定を誘発していく。
他者との意味のない差異に時に憧憬し、時に嫉妬する。
その差異について最終的に受容なり、差異をなくすことができればいいが、どちらもできない場合不安のみを抱えて生きるしかない。

その不安はときに、この社会においてはエネルギーとして政治的に利用されることもある。ある種の分断統治であったり、恐ろしいことであるが、ジェノサイドにつながることがある。不安を持つ者同士は、連帯しやすいが、その連帯は政治的には利用されがちだ。
そして、消費社会ではそうした精神構造に陥ったものは、スイッチがわかりやすい搾取の対象となっていく。

現代のこうした病に抗うためにはどうしたらいいのか。
一つの答えは、他者の差異への意味付けを放棄し、記号論的なものを捨象した「人」との関係をどのように築くかに四苦八苦し、一般的には矛盾だったりするものを抱えながら生きることだ。そして、体温であったり、身体感覚を大切にすることだ。




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